lesson10:見えない痕(1)

 新緑の反射するまぶしい光で目がくらむ。
 天気がいいことと白い壁がまぶしさを助長する。天気で良かった、と心から思う。
「本当に、ドレスを着ると雰囲気が変わりますねえ」
 メイク担当のスタッフが、おそらく褒め言葉なのだろうが私の地味な雰囲気を察してそう言った。
「とってもお似合いですよ」
 ありがとうございます、と、はにかんで言う。今日は、特別な日。本当に特別な日になるのだ。
「少しだけ、唇を開けて……そうそう」
 紅色の中でも、深紅の薔薇のような色のついたリップ用のブラッシュを、私の唇に塗っていく。そう、仕上げ、というやつだ。
「ああ、とてもいい。発色もお肌のお色に合っていますね」
 最後に、大きなブラシで、フェイスパウダーを顔全体に振りかける。できましたよ、と声をかけられた。
 真っ黒の髪の毛はアップにされ、所々にスイトピーのピンク。胸元と耳には真珠。純白のドレスは、拓也と一緒に選んだものだ。紅色は、顔を幼くする。この色のルージュを選んだ担当スタッフにお礼を言いたい。とても、清純に見える。そう、まさか、私には違うご主人様がいる、なんて誰も思わないだろう。顔を傾けると、最後に降ったフェイスパウダーがキラキラと光って、とても美しく見える。プロの技はすごい、そう思わせられた。
「これからはあまり食べたり飲んだりできませんよ、頑張ってくださいね」
 そう、声をかけられる。はい、と返事をする。そうだ、これから式と二次会で、きっと八時間は自由に行動できないだろう。メイク室を出ても、連続する白い壁に視界がクラクラした。
 新婦控え室、と書かれたその場所に入ると、母がいた。母は、すぐさまおめでとう、と言ってスマホで写真を撮りだした。黒のスーツだった。
「写真撮るの早いね」
「そうよ、楽しみにしていたのよ、あんたの晴れ姿。おめでとう」
「ありがとう」
 苦笑しながら言うと、母は言う。
「私、あの様子じゃ拓也君と結婚しないと思ってたわ……どういう風の吹き回し?」
 私が軽く咳払いをすると、母は口をつぐんだ。
「……軽率だったわ。まあ、幸せになりなさい」
 その母親の瞳を見ると、優しさと、羨望の色が隠しきれない。拓也が、いい相手に見えているのだと、なんだかおかしくて笑ってしまった。
「よほど嬉しいのね。良かったわ」
 母親の、まるで当ての外れた発言がおかしく感じる。そっと、用意された洋式のレトロな椅子 に腰をかけた。ドレスの裾を、スタッフが持ち上げてくれた。
 私は今日、花嫁になる。それは、新しい私の生活が始まるということだ。この結婚式から、私の暮らしは一気に変わる。働き方も、住居も、そして拓也と一緒に暮らすという、前の私だったらあり得ないことが始まるのだ。
 レースの裾を見つめて、私は笑う。
「きれいねえ」
 母の言葉をそのまま受け止める。私は綺麗になった。それは、拓也のせいではないのに。
 頭を揺らすと、華やかな飾りや生花が付いているためか、重たくて首が多少疲れる。メイクの担当が最終チェックに来た。
「この度はおめでとうございます。少し、調整しますね」
 母に挨拶すると、彼女は髪の毛の中に指を入れる。ヘアピンを調整しているようだった。
「あまり頭を揺らさないようにしてくださいね。がんばって」
 そう言うと、彼女はそっと、小さいメモを渡してきた。
 ……なんだろう、まさか。……ゆっくりと広げてみる。

 とてもきれいです
 見ていますよ


 途端に後ろを振り返る。でも、当然その姿は無い。すると、彼女はすぐ、その紙を奪った。
「あまり早く動くとずれますから、お気を付けて。……それでは」
 その言葉が終わるなり、そっと、ベールをかけられた。
「あ……」
 何も聞けない。何も見えない。でも、彼は何かの方法で私を見ている。安心感が、心の中に広がっていく。
 良かった。彼が今日この姿を見てくれているのなら、何も怖くなかった。
「それでは、新婦様、お母様、お時間です」
 その言葉で、私たちは控え室を出る。そのまま、細い廊下を歩いて行くと、教会風の広い場所に出て行く。スマホのフラッシュと、拍手。向かいには、燕尾服の拓也がいた。グレーのベストがよく似合っていた。相変わらず、長髪で毛先はパーマだが、今日はしっかりセットされていて、俳優志望にも見えなくも無い。母と組んでいた腕を、拓也の腕に組み直す。緊張しているかのような拓也の顔を見ながらゆっくりと、ヴァージンロードを進んでいく。
 ヴァージンロード。女にこれ以上の屈辱があるだろうか。
 この女は性行為をしていません、これからこの女は処女をこの男に捧げますという誓いのようにも見える、深いエンジの色。罪の上に罪を上塗りしているかのように、私は拓也とその上を歩いていく。でもそれが、私にとっては最上の喜びなのだった。拓也に身を捧げるのは、あの人のため、なのだから……
 見慣れた職場の同僚、田町や清水の姿が見える。理恵の姿も。みんな、祝福してくれている。理恵の息子は、どうしたのかな、外で待っているのかな。そんなことを考えていたら、神父の前に来てしまった。
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」
 神父の言葉が、青いステンドグラスで覆われた教会に響く。そこから差す光もほんのりと青色で、透けるようで美しかった。愛は寛容で親切。人を妬まない……確かに私は今、とても幸せだ。こんなにも幸せなことが、あるのだろうか……拓也の姿から透けて、あの人が見える。それでも拓也は私に愛を誓っている。こんなことがあるなんて、奇跡でしか無い。
「新郎沢城拓也、あなたはここにいる花巻いずみを、病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、妻として愛し、敬い、慈しむことを誓いますか?」
 拓也がゆっくりと、神父の目を見て言う。
「はい、誓います」
 神父の目線が私に移る。どきん、どきん。心臓が跳ね上がるように鼓動した。
「新婦花巻いずみ、あなたはここにいる沢城拓也を、病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、妻として愛し、敬い、慈しむことを誓いますか?」
「はい、誓います」
 拓也と同じように私は答える。できるだろう。きっと、私は拓也にそうできる。ずっと、心の奥に縄の痕を隠して生きていける。自信がある……