lesson3:セーフワード(1)

 拓也と過ごした昨日の夜を少し感傷的に振り返りながら、成宮のメールを開いてみる。
 そこには、ドミナントとサブミッシブの説明が書いてあった。
「……」
 ドミナント、とはサブミッシブの全ての権限を持つ、とあった。
「全ての権限って、どういうことだろう」

 いずみさん
 
 先日はとても楽しい時を過ぎさせていただき感謝しています。
 いずみさんが僕と、更に快感を増幅する為には主従関係の契約をして欲しいと考えております。
 そうすることで、貴女の快感は倍にも、ひいては百倍にもなり得るでしょう。
 僕の希望をここに書いておきますので、何か疑問があったらいつでもメールを下さい。お待ちしております。

 ※ドミナントは甲、サブミッシブは乙として扱うものとする。また、甲と乙の関係が成立するのは性的関係にあるときのみであり、それ以外の時は本人の自由であることとする。よって、プライベートで誰と性的関係にあってもお互いに糾弾することは無しとする。
 【ドミナント(以下甲)】
 サブミッシブ(以下乙)に対して全ての権限を持つ。プレイの最中は、セーフワードを設け乙がそれを発言するまでは責める事ができるものとする。痛みを伴うこともできるが、乙の力量を見極め、身体的に不可能であると判断した場合はプレイを中断する。
 主に甲が乙に行う行為は緊縛、行為の権限は甲が持つが、挿入に関しては乙の意思を尊重する。乙が求めていない場合は挿入はしない。しかしアナルセックスは例外としておく。
 【サブミッシブ】
 乙は甲の要望を全て受け入れる事で快感の糧とする。身体的、精神的に不可能な時はお互いに決めたセーフワードを使用し、行為を止めることができる。通常の言語での「止めて下さい」「嫌です」等の言葉は二人の間では行為を止める事にはならない。それさえも利用し性的に高めることができる。プレイの最中に行いたくない行為があるときはセーフワードを用いる。甲が乙に対して逢瀬を求めた場合には必ず応じること。これが出来なくなったときはこの関係は自然に解消となる。

 成宮の書いた文面に驚く。契約、というからどんな内容かと思ったらほとんど仕事の契約書のような文面である。ここまでして、私は成宮(あの人)に捧げなければならないのだろうか?よく考えなければ。流されてしまって、こんな契約をしてからでは遅い。……でも、拓也とこれから満たされて過ごせるだろうか?成宮のくれるような、快感を体験できないのではないのだろうか……拓也と別れる辛さより、成宮で体験したあの快感を逃してしまう恐怖が勝っている気がして、頭を抱えた。どうやら私は、とんでもない事を天秤にかけているのかもしれない。
 拓也とのセックスで快感を得られれば、この関係は無くなるだろうか?
 不意に、縛られた痕。手首のうっすらとした、消え入りそうな紫を見ながらため息をつく。
 ――また、僕に縛られたいですよね?
 そんな成宮の声が、聞こえたような気がした。
「しかも、アナル……って」
 成宮がそんなことをしようとしていたと知って少し腹が立つ。私は普通の人間だ。別にそんなことをしたいと思ってもいないし、この文面だとそれさえも成宮が権限を持つと言うことになる。これは許せない。ここははっきりと言う必要があるだろう。
「どうしよう……自分がどうしたいのかわからない」
 呟いて、ベッドの上のスマホを見つめる。
 拓也は正月明けまで忙しいだろうし、私が連絡して会いたいと言っても迷惑だろう。
 でも、成宮は。私と会いたいと、そう言ってくれる。会えば必ず、快感をくれる。契約しなくても、このままでもいいのではないか。少し時間のあるときに成宮と会って性的に解消する……世間では浮気、と言うのかもしれないが、なにしろセックスをしているわけではないのだ。自慰に耽るのと何が違うのだろう。
 決定的に、自慰とは違うはずなのに自分で理由を作っている。なんと弱い自分の心。それならやはり、拓也と別れた方がいいのかもしれない。忙しい時にこんな話をして、困らせることでも無い。年明けに考えよう。そう思い直して、私は成宮にメールを打つ。

 成宮さん
 こんにちは。メールありがとうございます。
 早速契約書?のような文面を拝見いたしました。私としては、成宮さんが行為の権限を持つ、というところに疑問を感じています。私が嫌だと思っても、あなたは応じて下さらないということでしょうか。今までは、私の気持ちに寄り添ってくれたように思うのですが。あと、アナルセックスについては私自身興味もないので嫌です。
それはしたくありません。

 メールを打って、ふう。とため息をつく。
 これで成宮がどうするか、見物だ。
 契約は無かったことに、いずみさんとも最後ですね、と言われてしまう気がした。でも、それならいっそのこと、成宮と終わらせて、拓也のところに戻る、という事になる。
 それがいいのだろうけど、成宮に会えないのは嫌だ。縛られてみて、あの快感を今後味わえないと思うとみぞおちのあたりがシクシクしてくる。まさか拓也にしてもらうことはできないし……そもそも、私は拓也にそんなことを望んでいるわけでは無い。
 そう思うと、拓也に望んでいるものはなんだろう、と考える。成宮にあって拓也にないもの。拓也はセックスも好きだし、優しくて気遣いの人。成宮は、危険で怪しくて、素性の知れない人。一体なんの職業なんだろう。それも知らない。奥さんがいるはずだけど……そうだ、その事が聞けるはずだったんだ。
 するとブーッとスマホのバイブ音がする。返信だった。勿論、差出人は成宮である。

 いずみさん
 ご返信ありがとうございます。それから、質問も。貴女が真剣に私との契約を考えて下さっているのだと分かって嬉しかったです。
 行為に関しては、私の権限で進めていきますが、初動は貴女が全てですよ。いずみさんの希望で契約する、そう考えていただければいいかと思います。
 それからアナルセックスについて。私としては更に上の快感を目指すためにも必要なことと思っています。膣へ挿入しない代わりに、こちらは是非開発していきたい。もちろん、いずみさんにその気持ちが無ければやめますので、心配しないで下さい。
 では、そろそろ休憩が終わってしまうので、後の返信は夜になります。
 いずみさんの痴態を思い出して、僕が昨日何度も果てていること、覚えておいて下さい。
 忘れられない夜でした。

「……」
 成宮の返信を読み終わると、少しほっとする。成宮は私の事を分かってくれているのだと、ちょっと安心するのだ。これも彼の作戦なんだろうか。私のように縛られて喜ぶ人がいないから?貴重な人間、ということなのだろうか。
 拓也にも連絡できない今、やはり成宮に会ってしまうのだろう、と思う自分がいる。契約なんて考えずに、取りあえずまた、成宮に会おう。別に今までの様に縛られて、快感を感じればいい。今、この場限りの既婚者との関係なのだ。自分の不貞に蓋をするかのごとく、私は成宮とのあの夜に思いを馳せた。そう、成宮がそうしたように。