lesson3:セーフワード(2)
「先輩、ちょっといいですか」
後輩の清水が声をかけてきて、いずみは戸惑う。どうしよう、何の話だろう。遠くで栗田が見ているような気がして、周囲を見てしまった。幸い、栗田の姿は無い。
「どうしたの、何か悩み?」
「あのー、向こうで話してもいいですか」
清水はピンクのフリルのシャツと丁寧に巻かれたパーマが麗しい。明らかに男性の気を引く髪型と服。こういった服装も、お局のスタッフには気にくわないのかもしれない。
隣の田町に、退席する旨を伝えて清水と共に部屋を出る。なんだろう。私を巻き込んで欲しくない……
事務部屋を出て、少し歩くと倉庫がある。職員のデータや商品のデータを鍵付きの棚に保管する場所だ。ここなら、まず人事課の人間くらいしか利用しないだろう。ドアを開けて、清水の顔を伺う。
「ここなら大丈夫?何かあった?」
清水は涙を浮かべて言う。大きな瞳が潤んで、きっと男なら抱きしめてしまいたいと思うのかもしれない。
「あの、栗田さんが……」
清水は言葉に詰まりながら話す。どうやら、栗田が直接自分に休みを取ったら、と言ってきたというのだ。
「休み?どうして」
「分かりません。ペアで仕事してるのが漆原さんなんですけど、漆原さんがいないときに私のデスクに来て」
漆原は私よりも二年先輩の男性社員だ。なるほど、もしかすると栗田は漆原をいいと思っているのかもしれない。貴重な男性独身社員でもある。
「私は入社の時からずっと有休消化率が悪いから、一週間くらいいいのではって言われて……でも、理由も無く休みを取るなんて、私は……漆原さんにも迷惑がかかるし」
もしかしたら漆原と仕事をしたいのかもしれない。全く栗田もやることが派手だ。もっと上手くやればいいはずなのに。栗田の浅はかさにも腹が立つが、それを私に言ってくるこの子にもいらだちが募る。
「別にそこは、毅然としていればいいんじゃないかな。だって意味も無く休みを勧めるってほぼパワハラだし」
私に相談しないで、と言いたい気持ちを抑えて、一つ一つ慎重に言葉を選ぶ。全く、自分のお人好しにも吐き気がしてくる。
「私、職場で相談できるのって花巻さんしかいないし。すみません、他の人に相談できなくて」
そう言われると何も言えない。でも、このまま私が絡むのも何か違う気がする。
「漆原さんに相談してみたら?意外とその方がいいかもよ。栗田さんより上だし」
「いえ、それも考えたんですけど……でもあの二人仲がいいから、うやむやにされたら嫌だと思って」
私が入っても変わらないんだけど、と思いながら清水の顔を見る。確かに、頼る人が私しかいないというのも考え物だ。それがこの子の服装や、妙に男に媚びる様に見える態度にあるとは、この子は思っていないのだろうか。
「とにかく、栗田さんにもの申すのは私も出来かねるし……断って行くしか無いんじゃないかな」
「栗田さんの私に関する興味を無くしたいんですけど……どうしたらいいですか」
どうしたら。それは私にも分からない。
おそらく、清水がフリーじゃなくなれば、多少の負担は軽減出来るのかもしれない。
「彼氏を作るとか?ステディがいれば安心するかもしれないよね」
「安心?どういうことですか」
「うーん、分かんないけど、きっと貴女の存在が不安になるんじゃ無い?色々と」
「……よく分かりませんけど、出来たら苦労しないですけどね」
その格好は女子受けしないよ、と言うとそうですか、と少ししょんぼりとする清水。可愛そうに見えてきて、少し同上する自分がいた。
「とにかく、余り気にしないで。別に普通でいいんじゃないかな」
「分かりました。花巻さんに相談して良かった。またお話しに来てもいいですか」
断る理由が無い。本当は嫌なのに、断れない自分はもっと嫌だ。私は平穏に暮らしたい。解くに仕事場では、何も考えずに生きていたいのに。
ふと、拓也の「気にしていられない」という言葉がよぎる。私たちよりもっと歳の人たちはどんな風に仕事をしているんだろう。成宮の左目の黒子を思い出した。
「うん」
不本意ながら返事をすると、泣いていた清水の顔は晴れていく。
代わりに、自分の心の中になにかしこりのようなものができた気がした。
ビールの缶を開けて、冷蔵庫のチーズを取り出す。
今日は卵を買ってきたので、オムレツができる。チーズオムレツを作るべく、フライパンを温めてバターを溶かす。ぐびっと一口ビールの泡を飲み込む。苦みが広がり多幸感に包まれた。するとメールのバイブ音がキッチンに響く。
いずみさん
少し考えて頂けましたか?
僕の方は、毎日いずみさんを縛りたくて今からでも会いに行きたいくらいです。
いずみさんの香りを思い出すと、大変悩ましいです。貴女の柔肌に食い込む縄を見たい。
僕がいすみさんに会う時は、常にいずみさん本意で事を進めています。それはこれからも変わりませんよ。
契約を抜きにしても、僕は貴女に会いたくて会いたくて。夜もまた、寂しく過ごすのです。
「奥さんは、どうしてるんだろう」
ぼそって呟いてから、慌ててバターの焦げる匂いに気づく。慌てて卵を掻き入れて、ふわっとまとめる。白い皿にのせて、ケチャップをかける。最高のつまみだ。
妻の事を話してもらうには、契約が必要なのだろうか。実は成宮の事がもっと知りたくもある。何をしている人なんだろう。何の仕事を?空手をやっていることと、既婚者であること、アルコールが飲めない事くらいしか知らない。
でも、はっと気づく。
成宮も、私の事を知らない。それでもこうして会いたいと言ってくる。これは、成宮の方はやはり、ただのセフレ、程度なのだろう。そうだ、割り切らなければいけない。いつも感じているようにこれは契約、仕事に近いのだ。所詮、付け焼き刃の関係でしか無い。いつ終わるのかも知れない関係に、おどおどしても仕方ないのかもしれなかった。