lesson4:縄酔い(1)
懐かしい匂いがする。
そうだった、私は十数年間この家にいたのだ。一人で生活しているのが長くて忘れていた。
母親が父親と別れたあと、引っ越して暮らしたアパート。母はまだそこに住んでいる。引っ越してもいいのではと言ったけれども母はこのままがいい、と言って聞かなかった。別れた父親を思い出さなくて済むこのアパートは、私は嫌いでは無かった。ふと父親の飲んだくれの姿を思い出して、心が痛んだ。
「いずみ、あんたビール?しかしちょっと、痩せたんじゃない」
ビールを注ぎながら、母は言う。そうかな、と何気なく返事をした。テレビは年末の特番をやっている。知らない芸人がわーわーと大きな声で喋って、何が面白いのか分からない漫才を披露していた。
「どうなの、最近。拓也君とは上手くやってるの」
ぎくりとしながら、私は一度逸らしたテレビにまた視線を戻す。やっぱりつまらない。
「うん、拓也年末年始は忙しくて」
「そう。拓也君っていい人よねえ。でもいずみ、そろそろ結婚とか、どうなの」
この話題が出ないわけがないと思っていたが、やはり出てしまった。母は安心したいらしいのだ。
「こればっかりは、双方の意思が、必要だから」
「拓也君は乗り気じゃ無いの」
詰問されているような気持ちになって、私はため息をつく。まさか、昨日違う男の家に行ってきた、なんて言えるわけが無い。しかも、縛られた痕まで、身体中に残っていると……
「いや……どちらかというと、私……かな」
「あらどうして?いずみ、あんた結婚したくないの」
「うーん……」
まさか、両親のせいだ、なんて言えない。それを言ってしまって、母が傷つくのは分かっていた。
「なんか、仕事もう少し頑張りたくて。だって結婚したら、拓也は土日出勤だし、すれ違いじゃない?仕事も今面白いところだし」
見え透いた嘘をついて、母をはぐらかす。別に結婚だけが女の幸せじゃ無い。なのに、母は少し昔の感覚なのだろう、まず女は結婚、と言いきるのだ。自分は離婚しているのに。
「三十越えたら、結婚考えておかないとね……」
もう母の言葉は正直鬱陶しくなってしまって、面白くも無いテレビを見る振りをする。そのまま、夕飯の残飯を片付ける母親。それに、自分も続いた。
小さなシンクに二人分の食器が入れられていく。そうだった、家を出る前はこんな風に二人で食器洗いをしていたっけ。母親の肩のラインが妙に下がっているような気になって、ドキリとする。こんな風に、私の知らないうちに親は歳を取っていくものなのか。昔いた父親も、きっと今は老けてしまって合っても分からないのかもしれない。結婚、という言葉が更に重く感じる。今のままの私で、この小さな母親を支えられるだろうか。このまま、歳を取っていく母を?
「いずみ、もっとちゃんと泡を流さなきゃ。あんたは小さいときからせっかちで、小心者だねえ」
そうだったのか。私のこの性格は、どうやら昔から、らしい。
「昔……そう……昔、さ。ママはパパの他に付き合ってた人はいないの」
「ええ……そんなこと、初めて聞かれたわね……」
すると酷く懐かしい顔をして、母は語り始める。
「そうね、昔すごく好きな人がいてね。その人は会社の他部署の先輩だったんだけど、既婚者だったの」
既婚者、と言うことばにぎくりとする。ああ、そんな事に反応してしまうなんて。
「それで、私若かったのね。奥さんがいるって、知らなかった。嘘ついてたのね、彼。それでまんまと騙されて、深い仲になったあとで聞いてさ。騙されてたって、泣いて泣いて、会社にも行けなくなったことがあったわ」
「それで、どうしたの」
「……思いっきりひっぱたいた……そんなわけないでしょう。今ならやったけど、きっと好きだったのね。あの人のこと。そのまま、連絡しなくなって終わったわ。どうしてあんなことになったのか、自分でも分からない。今になっても」
「ふーん……」
自分と重ねても、成宮は既婚者だと言っているし何も隠していることなんて……素性は知らないけど、それでもその先輩とは違う……違う気が、する。それともそれも、私の思い込みなのだろうか。
「ま、既婚者と付き合っていても何もいい事ないし……今では別れたのが正解だと思う。アンタの父さんと会ったことも、別に失敗とは思ってないわよ。あの人アル中だし。仕方なかったのよ」
淡々と、洗い物をしながら話す母に、私は酷くいたたまれない気持ちになる。
「何、そんな顔しなくてもいいじゃ無い。母だって、恋もしますし男性ともお付き合いするわよ、そりゃあ。女の楽しみじゃない?」
シンクの水を止めて、タオルで食器類を拭き上げる。私は恋をしているのだろうか。もし、成宮とのあれが恋なら、拓也との事は一体何なのだろう。分からない。三年も付き合ってる彼氏には恋をしないものなのだろうか。
母が父に抱いている感情は、何だろう。不思議になる。それから、付き合っていた既婚者の彼氏は……?
「女の感情って、説明するのが難しいね」
私が言うと、母は笑ってこう言った。
「言うようになったじゃない。女は三十代からよ。輝きなさい」
輝く、という言葉に違和感を覚える。拓也といて、私は輝いているだろうか。所詮、飽きてしまった彼氏、なのだろうか。分からない、拓也と過ごすのと、成宮と過ごすこと、比べる意味も無いのに比べてしまって、はあ、とため息をつく。自分ではどうしようも出来ないこの関係は、まただらだらと続いていくのだ……どちらも。
「さ、少しお茶飲んだら寝るか。久々隣で寝るなんて。子供の頃以来ね」
幼い時、忙しかった母親を待って、絵本を読んでもらうのが嬉しかった事を思い出す。流石にもう、絵本は無いけれど、母とこんな話が出来たことに感謝したい。老いていく母も、若いときは情熱に流された事があったという貴重な話。私はどうして、既婚者だと割り切れないのだろう。一体どうして……