lesson4:縄酔い(3)
駅のキオスクで五百円の傘を買って、ホームで電車を待つ。私は何をやっているんだろう。明日から出勤なのに、成宮の残り香でも探すようにバーにまで行って。……もうこれきりにしなきゃいけないって分かっているのに、またこうして彼を心で追っている。拓也は忙しい、私も忙しい。でも成宮には会う。その矛盾の繰り返し。私はどうしたいのだろう。拓也と別れたいのだろうか。それとも、一ヶ月後には目が覚めて、また、平凡でつまらないセックスを続けるのだろうか。それに、契約のこともある。一緒に堕ちましょう、と成宮は言ったのだ。成宮は今、何処にいるんだろう。ちっとも生きている感覚がしない。セックスもしない、私に入れようとしない、感情を出さない。拓也だったらすぐに分かるのに、成宮は感情が露出しない。発露したと思った瞬間には、また冷たい氷のように心を閉ざす。妻と別れずにこんなことを繰り返す彼は、狂っているのかもしれない。いや、私ももしかしたら、もう……?
心の中に湧き上がるこの感情。一体なんと呼ぶのか分からないこの気持ち。心が痛くて、苦しくて。拓也の事を考えようとしても、まるで焼き付けられたように成宮の残像が、声が繰り返し脳裏を過る。だめだ。私は、もうとうに狂っていたのかもしれない。急いで、自分の駅に向かうホームから離れる。スマホから、とある番号を押す。コールは二回。
「はい」
「あの、私です……いずみです」
「明けましておめでとうございます。いずみさん。……外にいるのですか」
「はい。その……実はあの、マスターに会っていたんです」
何故そう言ってしまったかは分からない。でも、言い訳の様に言葉が紡がれていく。誰かが心の中で、成宮に会うなと叫んでいる気がした。
「ほう。バー【サン・ミッシェル】ですか」
そうです、と心細く呟く。ドキドキと、隠した自分の心を知られないように、いや、知られるようにと鼓動が早くなっていく。
「……僕は今日休みですよ。実は稽古だったんです。奇遇ですね、実は……」
反対ホームの階段を駆け上がると、成宮の声が途切れる。傘が階段の手すりにぶつかり、落ちてしまった。
「すみません」
拾ってくれた男性に御礼を言う。そのままホームを昇ろうとすると、手を掴まれた。
「走ると危ないですよ、お嬢さん」
「あ……」
一瞬言葉を失う。
成宮だった。
「……どうして」
私が声を発すると、彼は困ったような顔でこう言った。
「言ったでしょう。今日は稽古だったと。道場の最寄り駅なんです」
なんだか泣き出しそうな気がして、思わず手を口元に持っていってしまった。
会いたかったら会ってしまう。まさか。こんなことが……
「いずみさんから、新年の言葉を聞いてませんよ、僕は」
そうだった。さっきは取り乱して言えて無かった気がする。
すると、私の手を引きながら階段を昇っていく。
「聞かせてくれますね、今日」
私はなにも言わずに頷いた。そのまま、鼻の奥がつうんとする感覚を味わいながら、自宅とは反対のホームで電車に乗る。泣きたくない。どうしてこの人に会うと、私は自分を曝け出せるのだろう。セックスでも、今でも。いつも利用しているのは私なのに。こうして成宮は、私の希望をいつも、叶えてくれるのだ。
成宮がそうしているように、仕事の様に振る舞おう。大人だからできるだろう。クールに、何にも動じないように。快感だけを貪って、この分からない感情は押し込んでしまえばいい。今の私にできるのはこれが精一杯だった。
電車は風を運びながら、私たち二人を乗せて成宮の家で降りる。
また、私は自分の意思でここに来てしまった……
堕ちると言った成宮の言葉が思い出されて、私は首を振った。
マンションのキーを成宮が開ける。前回と同じように部屋の中に入ると、やはり無機質な部屋であることが分かる。前回と比べて、落ち着いて周囲を確認出来ているように思う。抱かれたいと思いつつも叶わない。それを許さない成宮の意図は一体どこにあるのだろう。
「新年、明けましておめでとうございます」
改まって、言葉を発する。この言葉が今、必要なのかは分からない。でも、成宮がそう言ったのだ。ソファーに腰を掛けると、成宮は口を開いた。
「おめでとうございます。縄の痕は、消えましたか」
「そう……ですね。少し、ましになっています」
ふと、部屋の隅にマネキンのようなものがあるのに気づく。その女性の身体には、縄が巻き付けられていた。そう、前回の自分のように……
「まさか、いずみさんに会うとは思っていませんでした。偶然って怖いですね」
怖い、と言った言葉が自分に突き刺さって、まるでこれは誰かに仕組まれているのでは、とさえ思う。いや、違う。これは私が望んだこと……マスターが言った、M側が権利を持つ、という言葉を思い出す。今日は縛られたいとは言っていない。もしかして、私が望まなければ、このまま何も無く家に帰る事になるのだろうか。
「私こそ。まさか、あの駅で成宮さんに会うなんて」
静かに、興奮を抑えて私は言う。それを聞くと、彼はくす、と笑った。
「僕も今日非番で良かった。年末は仕事だったので。今日明日は休みなんです」
「仕事……」
呟くと、言っていませんでしたね、と成宮が呟く。
「僕はMEです。病院などの医療機器を扱う資格を持っています」
「ME、ですか」
聞いたことはある気がするが、それがどういった仕事なのか分かりかねる。じっと成宮を見ていると、彼はこう言った。
「病院内で、点滴ポンプの貸し出しをしたり。人工呼吸器の点検をしたり。あとは、血液を洗い流すような機器の時は立ち会ったりもします。年末年始は、うちの病院が救急当番日だったので、勤務していました」
「そう、なんですか」
私なんかとは仕事のストレスが全く違いそうなその仕事に、驚きを隠せなかった。
「大変なお仕事なんですね。私なんかじゃ、全く勤まらないかも」
「そんなことはありませんよ、何の仕事も大変です。僕がいずみさんの仕事をして、果たして勤まるか……何のお仕事ですか、いずみさんは」
何の仕事か知りたいと思っていたのに、自分の仕事の事もこの人に伝えていなかった。彼は、知りたく無かったのだろうか。
「私は、文具メーカーの事務を。成宮さんのお仕事、私……知りたいと思っていたのに、自分の仕事も話していなかったなんてびっくりしました」
すると、成宮は、はは、と声をあげて笑った。珍しい、そう思う。
「そうですね、僕たちは……まだ、何も知らないのと一緒ですね。でも、楽しいですよ、いずみさんとこうして話しているだけでも、貴女の顔を、見られただけでも」