lesson7:蜘蛛の巣(1)
今までの生活。それは、仕事と拓也との間で回っていたように思う。
それまでは、仕事の事を優先することがほとんどで、拓也に我慢してもらうことが多かった。
拓也に負担を掛けていたようにも思うし、彼自身がそういったことが好きだったのもあり、完全に甘えていた、と思う。
仕事では、なるべく目立たないように、なるべく自分の意見を言わないように、それに注意をして仕事をしていた。上司には逆らわない、後輩が困っていても助けずに様子をみる。田町のような察しのいい同僚に恵まれて良かったと本当に思っていた。
「いずみさん、貴女は人の言いなりになるような人間では、ほんとうは無いのです。僕にだけ、僕の奴隷の時だけそうしなさい。全て受け止めます。可愛い人。僕の永遠の奴隷になった貴女は、僕の腕でだけ、罪悪感で苛まれれば良い。それ以外では、自信のある頭の良い女性です」
あの激しい行為のあと、風呂上がりの私の髪の毛をドライヤーで乾かして成宮は言った。あの日以来、少しずつ仕事に変化が見えている気がする。
清水のことは、田町と助けに入ってからも栗田がちくちくとお小言を言っていたが、大きな動きにはなっていなかった。漆原、という清水のパートナーがいい人間だったこともあり、難なく仕事をこなしているように見える。
拓也は、LINEで私に元気?とか、具合はどう?などと一言送信が来るが、私も一言を返すとそれ以上は言ってこない。それに安心して、普通に仕事に行っていた。
成宮との関係は、完全に以前とは変わってしまった。ここ一ヶ月で、何度、彼に調教されたのだろう。分からないほど、私と成宮は会っていた。そして、最後は必ず、アナルセックスで終わる。縄の痕は、絶えず私の身体の中で疼き、主張している。また、彼に詰られ、縛られたい。謝りたい。自分のふがいなさを、罪を洗い流したい。あの行為が無くなったら、私は生きていけないのかも、しれない……
「ちょっと、いい?」
声を掛けてきたのは漆原で、清水のパートナーだ。どうも清水の仕事がはかどらないと。そういう事らしい。
「……清水さんね、どうも変なんだよ。そわそわしてさ。俺も助けてあげようと思っていたけど、最近の彼女仕事振りでは難しいって言うか」
「……」
私はため息をつく。どうして私なんだろう。なぜ、本人と話さないのか……
「ちょっと、いい?話だけでも」
はい、と返事をして、私は会議室へと異動する。田町の視線を、無視した。
大体どうして私がいつまでも彼女の事をさせられているのか……疑問ではある。そちらのチームで育てて欲しいものだ。
会議室で、漆原が言う。
「清水さんね、上の空でさ。何度もミスすんの。辛いでしょう?もし君だったらさ。何かあったのかな」
「よく知らないですが、漆原さんのほうが知っているのでは」
「いや、それが……男の俺が、若い子に言ってもさ。なんかセクハラとか言われたら、嫌じゃ無い?」
漆原にしては、珍しい。こんな女のようなことを言ってくる人間とは思っていなかった。
「それはそうですけど。でもそれは、漆原さんがサポートできるでしょう」
「う、うーん。そう思ってたんだが、どうも最近、ね」
「……」
どうも態度がおかしい。どういうことなんだろう。
「今までは、漆原さんは、彼女に協力的だと思っていましたが」
「そうしようと思ってた時期もあったね」
漆原は三十過ぎの未婚者で、栗田に狙われている。彼氏、ひいては結婚できるかもリストに入れられているのは明確だった。
「それではどうしてそうしない時期になったんですか」
私が質問すると、漆原ははあ、とため息をついた。
「助けてあげようと思っていたけど。どうやらあの子、いろいろなところで媚びを売っているみたいでさ」
それは、どういう意味だろう。私が困惑していると、漆原はこう言った。
「君のパートナーの子?田町君だっけ。あの子とも関係があるんでしょう。あと、他の部署にもモーション掛けてる男がいるとかってさ。なんか、僕、恥ずかしくなってきちゃって。一応僕が一番の相談役でしょ……」
漆原は、冴えない顔をしている。この人は、こんな人では無かったはずだ。おそらく、清水への恋慕を利用され、失望させられた経緯がないとこんな風に屈折した考えにはならないはず……
「……栗田さんですか」
「え?」
「栗田さんですね。何を吹き込まれたんです」
「いや、違うよ、僕はね、その……」
慌てて栗田との関係を否定する漆原。その姿を見て、私は確信した。
「栗田さんとは、寝たんですか」
「……」
やはり。この人は、まんまと、栗田に利用されているのだ。清水を狙っている漆原の気持ちを利用し、焚き付け、田町との関係で傷ついたところで奪う……なんとも幼稚だが、まあ使い古しのテクニックではあるだろう。もうそちらでもお世話になっているなら、職場でも逃げられない可能性はある。
「漆原さんは、復讐がしたいのですか」
「そうじゃない、そうじゃない、よ」
「清水さん、あなたのこととても頼りにしていたんです。それを、何故」
「……」
「変な性欲や、嫉妬欲で彼女を駄目にしないで下さい。彼女も人間です。決して可愛いマスコットでは無い。彼女が新人なことが、傷ついていい理由にはならない」
「……」
「栗田さんとそんない深い仲になってどうするんです。逃げられないのはあなたの方ですよ、漆原さん」
「俺はね、そんなつもりは」
「……女は、必死ですよ。どうやったら男を自分の物にできるか、どうやったらいい仕事ができるか、って。男の人はそれを利用して甘い汁を吸いすぎだと思いますよ。ね、漆原さん」
「君は、そんな……いや、その」
「なんですか」
「意外だよ、花巻さんがそんな風に他人を庇ったり、先輩を糾弾したりするなんて思っていなかった。栗田にも、君なら丸め込めるって言われてたんだ」
甘く見られていた。自分の今までの仕事ぶりに吐き気がする。いつだって私は目立たないように、穏便に、としか思っていなかったはずなのに。何が変わったのだろう。清水の事だって、自分に降りかからなければいいと、最初はそう思っていたはずだ。
「……清水さんと、お付き合いしたいのですか」
「いや、こんなおっさんが……彼女には似合わない。いいんだ。目が覚めたよ」
漆原は、落胆しているのが見て取れる。いい人だと、彼なら任せられると思っていた人間がこうも裏返るとは……恐れるべきは、栗田の力、か。頭のいい彼女は男一人手玉にとるのもたやすいだろう。じゃあ何故、結婚しないのか……それは謎ではある。それなら漆原と結婚でも何でもすればいいのに。
「いいえ。清水さんに関しては私も気にはしているので。栗田さんには気を付けて下さいね」
一応忠告だけはして、私は会議室を出る。自分のデスクに戻っても、心はすっきりとはしなかった。寧ろ、奥底からふつふつと湧いてくる感情を抑えるのに精一杯で、仕事にならない。終わらせたいデータ入力の仕事を途中までにして、私は早い昼食にしようと席を立つ。心が揺れて揺れて、誰かに話を聞いて欲しい。そもそも、私の心はいつも、この辛さだった気がする。自分の気持ちが言えなくて、隠して周りに合わせて。それでまた、辛くなって。本当はこうしたほうがいいとか、そうしない方がいいって心で思っていても、今まではそれが出来なかった……弱い私の心。拓也と普通に付き合っていたら、弱い私のままだったろうか。
滾る気持ちが、熱くて苦しい。
外の空気を吸って、深呼吸する……それでも収まらない。何だろうこの気持ち……
成宮に、会いたい。
彼に言ったら、なんと言うだろう……いつものように、優しく褒めてくれるだろうか。それとも激しく叱られるだろうか。その両方が欲しい。拗らせた私の心の中に、ずっと染みこんでくる成宮の心。何かが満たされなかった心は、きっと成宮が欲しかったのだ。まるで鍵穴に鍵がぴったりとはまるように、私は成宮を欲する。心が解放されるあの感覚……。心も身体も、まるで支配され、支配しているかのような溶け合う感覚……それは、セックスが終わった後でも変わらず私の中心に存在している。成宮と私で構成している自我。二人で共有する、自分という入れ物。一人で怖かった私が、確実に今、変わっている。成宮で、成宮の舌で、縄で。子宮に届かない、膣には入れない彼の心を共有する。全てを支配される、というのがこんなにも幸せな事とは思わなかった。私は、成宮という半身と繋がるためだけに存在しているのかもしれない。私は、私の存在意義を今、理解したも同然だった。
外の空気は、適度に私の身体を冷ましてくれる。
また、縄の痕が疼くのを堪えて午後の仕事に手を付けるのだった。