lesson8:贖罪と背徳(1)

 次の日、私は成宮に抱かれ、縛られたことで疲弊し、初めて会社を休んでしまった。
 休んでしまったことの罪悪感。部屋の静寂が自分を突き刺してくる。ベッドの中で、エアコンもつけずに私は布団にくるまる。冷えた空気が、皮膚に刺さって痛い。
 一人、自分の部屋にこもって、ぼんやりと天井を見る。ベッドで休みながら、成宮の言葉を思い出していた。
 彼は、私に拓也と結婚しろ、と言ったのだ。その言葉の意味を、いくら考えてみても分からない。私は、成宮の気持ちが分からない…いつも分からないと思っていたのは事実だった。彼の、本当の意味でのサブミッシブになった時、感情が流れ込むようになったと、そう思っていたのに。どうしたら良いのだろう。彼の気持ちより、彼の感情が分からなかった。私が結婚することを、彼は何とも思っていない…どころか、それさえも快感に利用しようと、そういうことなのだろうか。私は、いったいどうしたいの…?
 拓也との結婚を考えると、吐き気がしてくる。あの幸せな家庭の中に、私のような人間が入ったらとんでもないことになるのはわかっている。それでも、成宮はそれを望んでいる…どうして…
 狭い部屋のぽつんと一人、寂しくいることを、別に仕方ないと思っていた。それでも、なぜか成宮には会いたくなる。おかしい。拓也とはそうではなかったのに、生活感のない成宮に限ってそうなのだから、自分のことさえ理解していない気がしてくる。どうして…私は、あの人と離れたくないのだろう。もう、飼いならされているから?サブミッシブだから?いや、でもそうなる前に、私は完全に彼に依存していた。どうしてあの人は拓也と結婚しろと言ってくるのだろう。分からない、分からない…辛くて、涙が出てくる。でも、拓也と結婚しなければ私たちの関係は終わる。あっけなく終わりを迎えてしまうだろう。
 ふと、思い立って、とある番号に電話を掛ける。
 ……コールは、三回。そのあと、「もしもし」という優しい声がした。
「理恵……」
 そういうと、私は泣き出した。スマホの向こうで、いずみ、どうしたの、と言う友人の声がする。それから、近くで泣いている赤ちゃんの声。そうだった。彼女は、もうただの女性ではない。お母さんなんだ。
「いずみ、ごめんね、今うちの子泣いちゃってて……うるさくない?ちょっと、待ってて」
 突然電話して、きっと育児で大変な時だと思うのに彼女はとても優しい。よしよし、ママがおっぱいあげますからねー、という声が響いてくる。遠くで理恵の声を聴きながら、私はひっく、ひっく、と泣き続けていた。どうしたらいいのだろう……理恵のように、拓也と結婚して子供を持てれば私も変わるのだろうか。
「いずみ、ごめんね、今スピーカーにしたから、大丈夫だよ。うちの子おっぱい飲んでるし……何があったの、拓也君のこと?」
 率直に聞かれて、うん、と涙声でうなずく。理恵は優しく、そうかあ、と言ってくれる。何も聞かない。こんなに心地よいことがあるだろうか。ただ、泣いていいという時間。この友人が自分を受け止めてもらえるという安心感……好きな男性といるのとは全く違う。自分の母親でも、こんなに安心することなんてない。大概不快にさせられるのだ。私の唯一無二の親友……
「私ね……自分の気持ちが分からないの、私……拓也が好きじゃないかもしれない」
 んく、んく、と赤ん坊がおっぱいを飲んでいる音がする。私は理恵のように、こんな風に幸せにはなれない気がする。
「いずみ、拓也君のこと、好きじゃなかったの」
「ううん、好きだったよ、好きだった」
「じゃあどうして、好きじゃなくなったの」
「結婚……したくないの、嫌なの」
「プロポーズ、されたの……?」
 弱弱しく、うん、と言う。すると、理恵は結婚しなきゃいいじゃん、と言った。
「そうだよ、ね……」
 簡単なことだ。拓也と結婚しなきゃいい。ただそれだけのことだった。でも、私には結婚しければならない理由がある。
「なんでそんなに、結婚にこだわるの、結婚したくないって言ってる割に、いずみは結婚にこだわっている気がする」
 心の中を見透かされたような理恵の言葉。成宮に拓也との結婚を強要されている、なんて……とてもじゃないけど理恵には言えない。
「結婚は、私……一生できない、たぶん……理恵のように、幸せには、なれない」
「なんでそんなこというの、それに、私の幸せはこれかもしれないけど、いずみの幸せがこれとは限らないでしょう」
 これ、とは、家庭をもって子供を育てること?
「……」
 私の、幸せ……
 私にも、幸せになる形が、あるの……?
「拓也君への愛情は、無いの……?」
 愛情。愛情って、なんだろう。拓也へ感じていた私の感情は、「楽な相手」かもしれない。
 成宮への感情は……?説明できない。あれが愛なのか、憎しみなのか、性欲なのか……何なのか……本当に分からなくなる。でも、成宮を思うといつでも心が熱い。苦しい。辛くて辛くて、どうしてなのか分からないけど、成宮に触れたくなる。触れて、縛ってもらいたくなる…… アレ・・ を口に含みたい。会いたい。顔を見たい。声が聴きたい……とめどなく溢れていく成宮への思いは、自分でもどうしたらいいのか分からないくらい、複雑で説明できなかった。
「理恵、私…あのね」
 うん、という親友の声は、とても落ち着いていた。おっぱいを飲んでいるのか、赤ちゃんの落ち着いた声がする。んく、んく。だー。可愛いのだろうなあ、理恵の子は。まだ会っていないのに、可愛いのだろうと思う。私は、理恵がしているようにはできないのかも、しれない。
「私……よくわからないの、自分の感情が。拓也のことは好きだし尊敬しているし、その……三年も付き合って、結婚してもおかしくないよ。でもね、もし。もし……その結婚さえも、私の幸せのうちの、ほんのわずかなものだったとしたら……」
「どういうこと」
「……理恵みたいに、その結婚自体が幸せではないかもしれない、それでも……」
「私は、いずみには幸せになってほしいよ。本当の幸せを突き止めて欲しい。それは、拓也君ではないの」
「……拓也では、無いのかもしれない。でも、拓也と結婚を考えている自分がいるの……弱い自分が」
「後悔しないで、いずみ……拓也君だけが男じゃないし、結婚だけがすべてでもないから。よく考えて。いずみが今、もし……死ぬとしてよ、最後に会いに行く人は誰?」
「……さいご」
 自分の最後、誰に会いたいだろう。もし結婚して、拓也との子供がいて……それでも、私は、私は……