lesson1:憂鬱な三十歳(4)

「いずみさん、今日は少しお話をしましょう。ここでは込み入った話もできませんので場所を変えて」
 はあ、とぼんやり返事をすると彼は席を立つ。慌てて自分も鞄を持ち、彼に続く。あまり慣れていない駅の周辺で、どこに何があるか分からなかった。
「いずみさんはお酒がお好きのようですね」
 SNSで度々写真をあげているからか、成宮に自分の趣味が知られているようだった。
「バーでお話をききましょう。こちらです」
 彼に付いていくと、薄暗い隠れ家的な場所に着いた。何件も居酒屋や、バーが建ち並んでいる。そのうちの一つ、地下に入って行く作りの店に彼は入って行った。
 ちょっとした個室になっている席に腰をかけると、マスターらしき男が話しかけてきた。
「いらっしゃいませ。何になさいますか」
 メニューを見ると、ワインベース、と書いた場所に目がいく。マスターが言う。
「ワインがお好きでしたら、キールアンペリアルを。飲んだことはございますか」
「いいえ。初めてです」
「それではご賞味ください」
 マスターがワインを開けている音がする。向かいにいる成宮にはコーヒーが運ばれてきた。
「成宮さんは飲まないんですか」
「僕は下戸なんです。いずみさんは楽しんでください。ここは昼間、カフェなんですよ」
 なんとなく悪い気がしながら、それでもどんな酒が来るのかとわくわくしてしまう。
「どうぞ」
 目の前に運ばれた酒は、フルートグラスにピンク色の透明な色が広がって、とても綺麗だった。
「きっと美味しいですよ」
 成宮が言うので、いただきます、と言ってから一口飲む。一気に広がるカシスの香りとシャンパンのすっきりとした味わい、上品な炭酸。その後鼻に抜ける果実の香り。全てが完成された味だった。
「美味しい」
 成宮は何も言わず、笑った。コーヒーを飲みながら、また見つめられていずみは目線を逸らした。
「いずみさんが、素敵な方で僕は満足です。正直、会うまではどきどきしていました」
 少しほっとして、自分もです、と言う。それを聞くと、成宮はそっと、自分の手に手を重ねた。
「こうして、いずみさんに触れるだけでも、僕は今日来た甲斐がある」
 成宮の瞳は寂しそうで、そのまま拒否できなかった。そっと触れられているのに、全く不快では無い。
「僕が貴女を満足させられたらと、思いますよ。快感で咽ぶまで、ずっと……」
 途端に成宮の表情が変わっていく。それは男の欲情の色を交えて、怪しくいずみを刺激した。
「あの、成宮さん……」
「いずみさんが望むなら、僕は何でもしますよ」
 何でも、と言われて途端に期待が膨らむ。拓也とのセックスで言えないことや、今まで体験していない快感を私はこの人から貰えるのだろうか。
「私、彼のこと、嫌いなわけじゃないんです。でも……このままでは、身体の奥が焦れて、辛いのです。別れを切り出すのも何か違う気がして。自分の忙しさとワガママで終わりにするなんて。成宮さんの性癖を体験したら、私も何か変わるのかもって、そう思ってしまったんです」
「それでいいですよ。いずみさんのストレス解消になれば。僕は」
「怖くって、私。初めて会ったあなたにこんなこと」
 正直な言葉が出てきて、少し重荷を下ろしたような気分になる。他の男と会っている、しかももしかしたら、このまま自分はこの成宮とどうにかなってしまうかもしれない。
「この前も少し書いたと思うのですが、僕は貴女とセックスはしない。約束します。僕の性癖に付き合ってもらうだけ。それでも怖いですか」
「それって、どういう……」
「言葉通りですよ。僕が貴女に入れる事はしない。それ以外のことをたくさん、させてください」
 直接的に言われて、やっと内容を理解する。そんなことがあって良いのだろうか。男性はそもそも、入れたい生き物だと思っていた。こんな男性がいるなんて、と不思議に思う。
「愛撫だけ。貴女にするのは愛撫だけです。あとは、優しく縛らせていただければ僕は満足です」
「あ……」
 その言葉に、完全に納得している自分がいた。それなら、と思わず言葉が出てしまった。
「良かった。今日、このあとお付き合いいただけますね」
 優しく言われて、いずみはこくんと頷いた。そのまま、ぐい、とキールアンペリアルを飲み干した。
 クラクラする頭を隠して、成宮と共にバーを出る。路地裏のネオンが怪しく光っていた。


 そのまま歩いて、繁華街を成宮に付いていく。成宮は拓也よりも背が高くなく、細い。年齢不詳な成宮に、いずみは幾つですか、と聞いてみた。成宮は苦笑しながら、四十ですよ、と言うのでいずみは驚いた。
「そんな、私と変わらないと思っていました」
「貴女は若く、綺麗です。僕は貴女に会えて嬉しい」
 ぎゅ、と手を握られて、いずみは胸がときめく。十も上の男性が、これから私に奉仕してくれるというのだ。こんな事があって良いのだろうか。しかも貞操も守れるなんて。いや、でもホテルに着いたら突然襲われたらどうしよう、そんな気持ちも多少はある、相手は素性の知れない男なのに。
 成宮は四十といっても若く清潔に見えるし、相手としてとても魅力的である。口ひげを携えて、芸術家風の拓也とは全く違った風貌であるが、精悍で誠実な印象があった。
 ホテルに着くと、成宮は素早く支払いをしていずみを案内する。慣れているように見えるのは、勘違いなのだろうか。
 エレベーターの中で、成宮はそっと、いずみの顔に寄り添って言う。
「キスを、してもいいですか」
 そんなことを聞かれたことに驚いて、それでも頷いている自分がいた。そのまま自分の唇に、成宮のそれが触れる。そっと中までこじ開けられて、舌が絡まる。ほんのりコーヒーの香りを感じて呻くとすぐ、舌が離れた。
「我慢できませんでした。いずみさんが可愛いから」
 かあ、と顔が赤くなるのが分かる。こんなときめきを、何年も体験していなかったことに驚きを隠せない。私が欲しかったのは、これかもしれない。そんな風に思いながら、部屋に入って行く。
 そこは、大きなベッドと、透明な仕切りの浴室があった。
「いずみさん、貴女にまずは、縛られる快感を感じて欲しいんです。僕は貴女の美しい肌に縄が這う様を見てみたい。貴女が縛られて楽しければ、最高な時になる」
 ゆっくりと、ベッドの上に座らされて、諭すように言われる。まるで子供にでも言うように優しい。はい、と素直に答えると、成宮はぎゅっと私を抱きしめた。それから、ジャケットを脱ぐと自分の鞄からそっと、一本のロープを出す。それは赤く、怪しくそこに存在していた。ゴクリ、と喉が鳴る。
「痛いことはしません。貴女が気持ちいいと感じるようにやります。まずは、二カ所だけ、縛ってみましょうか」
 ブラウスのボタンを外されて、いずみは緊張する。こんなことをしているなんて。一体誰が想像するだろう。
 拓也以外の男と。理恵が知ったらなんて言うだろう。いや、誰にも言えない。この事は誰にも言えないのだ。