lesson4:縄酔い(2)

 年末年始のゆったりとした時間を母と過ごし、自宅へと帰る。まだ三が日は終わっていないが、一月三日ともなれば人通りは多い。母と話しまくって疲れたのか、少し一人の時間が欲しかった。店舗は人でごったがえしているが、買い物をするのも悪くないかもしれない、と思った。
 拓也の店に行くのも気が引けるし、まさか正月早々に成宮に連絡するわけにもいかない。ふと、成宮の事を思い出して、あのカフェに行ってみようかと思い立つ。あの場所がこんな正月からやっているのかも疑問だったが、それでも少し気分転換になりそうだ。もし閉まっていたら、他のカフェに行けば良いのだ。
 マスターに借りた本は半分まで読んでいた。毎話が終わるのが疲れなくて、自分には丁度いい。不思議な話の数々、その中には椅子の中に人間が入る話もあってびっくりした。未亡人に恋慕した中年が思いあまってしまう話だったが、乱歩は実に人間の性癖や屈折した思いを書くのが上手いように思う。ぞっとするが、その反面日常にそんな人がいそうな気がするのだ。
 例のカフェは夜間はバーになるけれど、なんとなく酒を飲む気持ちでも無い。昼間にぶらりと寄ってみた。
 案の定、やはり三が日は休みだった。それはそうだろう、店を開けても利益はないかもしれない。当然のことだった。
 張り紙を見て、引き返す。すると、後ろから「おめでとうございます」と声がした。思わず振り返ると、マスターが立っていたのだ。
「あ……明けまして、おめでとう、ございます」
 マスターは何故か少し悲しそうな顔をして、お店開けますよ、と言った。
「いいえ、閉まっているのに、開けてもらうなんて。おこがましいです」
「いいんですよ、夜は開けようと思っていたので、今開けても同じですから。どうぞ、入ってください」
 そう言われて、はあ、と気落ちの声を出して中に入っていく。恥ずかしい。遠回しに成宮に会いたいと思われていたらどうしよう。そんな風に思いながら、カウンター席を案内された。
「どうぞ、お酒になさいますか」
「いいえ、コーヒーを、一杯」
「かしこまりました」
 マスターのコーヒーを挽く音を聞きながら、マスターに借りた本を読む。なんだかとてもいい。読み進めてみると、SMに興じる夫婦の話があった。何という偶然なのだろう。興味深く読んでみる。
 ほんのりとしたコーヒーの匂いは、徐々に香り強く自分の鼻を擽る。実にいい香りだった。その中で、サディズムに溺れて、妻を殺害してしまった夫の話があった。殺人事件では無く、プレイのせいで。
「……」
 その恐怖が、自分の中にグサリと刺さった気がして、途中で本を閉じる。だめだ、これ以上読んでいられない。
「コーヒー、お待たせしました」
「ありがとう……ございます」
 マスターは私を見ると、乱歩の話をし始める。
「どうですか、もう大分読んでいるみたいですが、お気に召しましたか」
「はい、あの……どれも読んだことが無い話で、面白いです。久々に本を読みました」
 それはよかった、とマスターが言う。マスターも、このSMの話を読んだのだろうか。
「マスター、あの、このSMのお話、なんだかびっくりして……こんな世界があるんですね」
 するとマスターは、意外、という顔をした。
「ご興味がありますか。貴女には縁の無いようなお話かと思っておりましたが」
「いや、その……興味、というか」
 なんとなくバツが悪くなり、私は舌を向いた。誤魔化すようにコーヒーを一口、口に含む。さっぱりとした酸味と、ほんのりとした苦み。爽やかでとても美味しかった。
「そちらの世界は主導権が責任重大、と聞いたことがあります。大体はM側の方が、権利を持っているそうですがね」
 私はマスターをじっと見つめた。
 どういうことだろう。私と成宮の関係では、とてもじゃないけれど私が主導権を取っているとは思えなかった。
「M側が、なんですか」
「ええ。驚きですよね。でも確かに、その人をどれだけ傷つけていいかはその人が決めないと、とんでも無い事になりますよね」
 確かに。快感ではなくなりそうだ。
「痛めつけられて、それを制御出来れば、すごい世界なのかもしれませんけどね。作品の様に夫婦でやっていらしたら、信頼はありそうです。でも死んでしまっては」
 ゴクリ。唾を飲み込んでしまった……
「作品のように、死……」
「かも、しれません。奥深いものなのでしょうね。私たちには、知り得ない代物です」
「……」
 コーヒーが美味しいのに、美味しい、と言う言葉が出てこない。マスターがレコードに手を掛けると、ゆったりとしたオールディーズの曲が流れていく。成宮が連れてきたバーに、マスターと二人、成宮はいない。不思議だった。
「もう少し読んでみて下さい。お返しは、いつでも」
 にっこりと笑うマスターに、私も笑い返す。優しい人。隣にいる成宮を思って、少し気持ちが暗くなった。
 私が主導権を持つ……マスターが言ったことは本当だろうか。「セーフワード」もそのうちの一つであるのかもしれない。私は、一体どんな世界に飛び込もうとしているのだろう。
「成宮様はお忙しいのですか」
 心臓が突然のことにびっくりして、鼓動を早める。
「知りません、私……正直何をして、何処で働いている方かも存じ上げなくって」
「……知りたいですか」
 マスターの意味深な言葉に、私は言葉が出なかった。「はい」も「いいえ」も。
「私が言ってしまったら、成宮様は怒るでしょうね。貴女との会話が、一つ減るのですから」
 マスターの髭が、少し動いたように見えた。それから、眼鏡の奥に光が灯ったような気がするのは気のせいだろうか。
「私……成宮さんを」
 言おうとして、マスターはそれを遮った。玄関のチャイムが鳴る。
「お客様です。この話は、また今度」
 テーブル席に客を案内するマスター。それを見ないようにして、私はコーヒーを飲み干した。
 外に出ると、雨が降っていた。