lesson8:贖罪と背徳(2)

「……」
 自分の脳裏に浮かんだことに本当に絶望する。幸せな家庭があっても、子供がいても……きっと私は……成宮に会えないのなら、生きる価値がない。彼がいないともう……私は生きていけないかもしれない。
「いずみ、自分の思うとおりに生きようよ、いずみの思うままに」
「私……」
 泣いている自分の、涙をぬぐって、心の中で言う。私は、成宮がいないと……生きていけないのだ。生きがいだった。彼が私の生きがい……セックスも、快感も、縄も。すべて霧散したとしても……私は。
「彼と一緒にいたい……」
 その私の言葉に、理恵は分かった?と言った。私はうん、と答える。最後、会いたい人、譲れない人……その人がいたら、人生が終わってもいい人……
「その彼、が誰かは分からないけど、私、いずみが幸せなことが一番だと思うよ。私は……いずみが泣くのはいやだよ……」
「うん。うん……私ね、理恵」
「なに、いずみ」
「私のことを軽蔑してもいいから。だから、私の今のこの恋を、否定しないで欲しい」
「分かった。どんな状況でも、私だけは味方。それは、忘れないで」
 理恵の柔らかく落ち着く言葉。それを聞きながら、涙を拭く。私、もう大丈夫だろうか。いや、きっとこんな辛い気持ちを繰り返して繰り返していくのだ。これが、成宮と生きていくには、大切なことなのかもしれない。心も体も支配される。そして、成宮を私も間接的に支配する……もしかしたら、そういうことなのかもしれない。まだ入り込んでいないBDSMの世界は、きっと分かってしまったら、戻れない。辛さも幸せに、変換されるのだろうから……
 成宮に、また私は会ってしまう。きっと、逆らえない。身も心も彼のものになる……そんな日が来るのだろうか。拓也のことなんて、何とも思えない、いや、もしかしたら彼のためなら拓也のことも愛せるようになってしまうのだろうか。少し心の奥がぞっとする。心まで、作り変えられてしまうのか、それとも本当の自分に気付けるのだろうか……不安が胸をわしづかみしているようだった。
「いずみ、ごめん、うちの子、おっぱい飲みながら寝ちゃった。寝かしてくる。少し、落ち着いた?」
「うん、ありがとう……感謝するよ」
「じゃあ、切るね。もう泣かないで。私、いつでもあなたの話聞くから」
 無言で頷く。それを、きっと理恵は分かっているのだろう。またね、という声がして、それから電話は機械的なツー、という音に変わった。
 スマホを見ると、メールあり、となっている。差出人は成宮正樹、とあった。時計の針は正午。会いたいと、そういうことだろうか……でも、私が今日、出勤なのは彼もしっているはず。なぜ、こんな昼間に?私の休憩を狙ったのだろうか。
 メールボックスを開くと、件名は無題だった。
 内容を見る。すると、一言、お会いしたいです、とだけ書かれていた。
 私も会いたい。いつもあなたのことばかり考えているのですよ、とこの心の中をすべて彼に見せてあげたいくらいだった。それなのに、やっぱり成宮は私を拓也と結婚させるつもりなのか……嘘でした、と言ってくれないだろうか。妻も本当はいなくて、あなたとずっと暮らしたいって、そんな甘い言葉を、成宮は言ってくれないだろうかと期待する。普通の暮らし……成宮と?それを、私は望んでいるのだろうか。本当?本当に思っている……?成宮との、 普通の恋愛・・・・・ 、を?
「私、私……」
 頭痛がして、ベッドの布団に潜り込む。だめだ、私は……普通の恋愛を望んでいない、きっと、成宮に身も心も染まってしまって、何もかも、彼の言いなりになってしまうのかもしれない。怖い、でも、そこまで行くことができたら私は……本当の幸せ、を見つけられる気がするのは、なぜだろう。
 
 そのまま、眠り込んでいた。アパートの外の、小学生の声がする。下校時刻なのだろう、と、言うことは……

「今何時」
 一人で問いかけて、私は部屋の時計を見る。四時だった。成宮に、メールを返さないで寝てしまった……彼は、もしかしたら焦れているのだろうか。だとしたら面白い……私を思って、彼が焦がれるさまを見てみたい。私ばかりが、彼を好きなのではと思ってしまっているからか、こういう時は焦らしたい。そして、お仕置きがされたかった。次のお仕置きはなんだろう。また、彼の縄で、首を絞められて、アナルで……ひどくされることを、望んでいる……
「拓也となんて、もう」
 無理なのは分かっていた。拓也と結婚なんて、絶対に無理であると。それは、成宮も分かっているはずなのに。
 別れる、この関係はなかったことに、と言われるのが怖くて私は成宮に聞くことができないでいる……
 拓也と結婚する、その意味を。
「教えてはくれないのですか」
 空虚な一人の空間。そのに、私はつぶやく。理恵のようになんて、もう無理なのは成宮が一番知っているのに。私は、成宮の遊び人形なのだろうか。所詮、ドミナントとサブミッシブの……
 いや、違う。完全にドミナントとサブミッシブになった今だからわかる。この関係は結婚より、なによりも強く結ばれている……成宮がそうしたのだ。私がその関係におぼれた。結婚、それに私がこだわっているから?そんな気がしてくる。理恵も、私が結婚にこだわっていると、そう言ったのだ。
 会わなければ、変わらない、そんな気がする。
 成宮のメールに、会いたいです、と返す。すると、すぐに返信が来た。

 待っていましたよ、いずみさん。本当に、待っていました。

 その言葉の意味を知るために成宮のマンションへと向かう。化粧はクールに、ほんのりと愛らしく。スカートは最初に会った時の……
 成宮は覚えているのだろうか。私に初めて会った日のことを。強烈に、脳裏に焼き付くあの絶頂を思い出しながら、今の絶頂と比べる。なんら、変わらない。色褪せない、成宮と経験した快感はどれもこれも、すべてが激しくきらきらと輝いている。大事な記憶のかけらを比べながら、私は電車を乗り継ぐ。成宮と偶然会った駅、成宮の最寄り駅……初めての記憶を探りながら、またやはり私はここに来ている。ヒールが、硬いアスファルトを踏みつけて、すり減りそうなほどの緊張感で、私は成宮のマンションのフォンを鳴らす。
「……どうぞ」
 低い声でそう言って、いつものように成宮は迎え入れる。私が心の中で、何を考えているのかなんて、この人には分からないのかもしれない。強く結びついているのは、身体だけ……支配し、されている精神とは、心はまた別なのだろうか。黒いエレベーターの壁にため息をつきながら、成宮に会いに行く自分が……恨めしかった。