lesson1:憂鬱な三十歳(1)
とあるカフェで、コーヒーを注文する。
仕事終わりの日課になっていた。
大勢で賑わうカフェは、可愛い女性店員さんと、若い男性のやり取りを見ているだけでも羨ましい。あんな時もあったな、と思いながらコーヒーを飲むと、ほろ苦い味が胸の中まで広がったようだった。
花巻いずみは、大学を卒業してから事務職に就いてもう八年になる。仕事もそつなくこなし、別にこれと言って悩みもない。三年付き合った彼までいる。
今までの人生は順風満帆と言っても過言ではなかった。
しかし、心は荒んでいく一方、である。
その理由は、何かが「満たされない」のだった。
仕事は頑張ってはいるが、この仕事がとんでもなく好きかと言われるとそうでは無い。今日は後輩が仕事のミスをしてしまって、その解決のために上司と話し合いをしてきたところだ。後輩が言うには、
「先輩みたいにはうまくできません」
との事だったが、どうにもいずみには後輩の気持ちが理解できない。しかし先輩の意見は、
「花巻の教え方にも問題があるんじゃないか」
そんな風に言われ、自分でもどうしたらいいか分からないのだ。でも、日常を奪われるほど仕事にのめり込むのも何かしゃくに障る。板挟みのまま、いずみはのらりくらりと忙しい日々を過ごしていた。
彼氏といえば、三年も付き合っていれば「なあなあ」な関係にもなってしまって、昔に感じたときめきのようなものは薄れている。そろそろ結婚しても良い歳ではあるが、そんな話が出ることはお互いに無い。
正に、だらだらと続くだけの日常なのであった。
ふと、LINEを見ると彼からのスタンプが入った。熊が走っているスタンプなのだが、その後に続いて「いずみ、今日そっち行っていい?」と文章が続く。
今日、彼はうちに来たいようだ。別にいつものこと、日常の何気ない事である。
「どーぞ」
と一言打って、いずみはハートをたくさん振りまくウサギのスタンプを送った。
彼氏の沢城拓也とは、友人の結婚式の二次会で知り合った。真っ先に結婚した友達、里中理恵の二次会は、友人の数が多く、貸し切ったレストランははち切れんばかりの満杯だった。人混みに辟易して、ワインを片手にいずみは外のオープンカフェで一人、飲んでいたのだった。
「隣り、いいですか」
いずみが一人飲みを決め込んでいる中、堂々と声をかけてきたのが同い年の拓也だった、という訳だ。
その場で意気投合し、二次会を抜け出した二人は、カラオケ、もう一度飲み、というはしご酒をしながら楽しんだ。
お互いに連絡先を交換し、その場はそのまま帰った。次の日、どうしてあんなに意気投合したのかが分からず、いずみは困惑した。拓也のどこが良かったのか、全く思い出せない。でも楽しかった思い出だけがあって、仕方なく自分からLINEした。内容は、「昨日楽しかったけど、あんまり思い出せない。あなたはどういう人だっけ?」という内容のものだった。それを見た拓也は、スマホ片手に大笑いしたそうだ。その日に二人は再び会い、お互いにどういった人間なのか確認した。いずみの飾らないところが、格好付け屋の拓也には新鮮に見え、拓也の気遣いや細やかなところが、大雑把ないずみにはとても素敵に思えたのだった。
そんな出会いから三年。
いずみは家路につく。玄関を開けて、誰もいないアパートに帰る。
「ただいま」
ハイヒールを脱いで、部屋着に着替える。すぐに風呂を沸かした。今日は拓也が来るのだ。ヒールで疲れた脚をもみほぐしながら、いずみはテレビを付けてソファーに座る。ふと気づくともう七時であった。
夕飯、なんにしよう、そうぼんやり思い立って、冷蔵庫に張り付く。拓也が来るのに何も無い。何か買った方がいいだろうか?白飯さえも無いので、簡単にチャーハンさえも作れない。うんうんと唸っていると、玄関のチャイムが鳴った。
ドアを開けると、そこには拓也が立っていた。片手にビニール袋をぶら下げている。
「よ、買ってきたよ。それとも何かある?」
拓也のさりげない優しさを感じる。自分が何かを作っていたとしても、いなかったとしてもちゃんと逃げ道を作ってくれている。優しいし、本当に気がつく人だと自分の彼ながら感心する。それに比べて自分は少し、子供っぽいのだろうか。
「ありがとう、助かった。あがって」
拓也が中に入ってくる。彼の格好はデニムにジャケットを羽織るというカジュアルな出で立ちであるが、自分は早々に部屋着に着替えている。少し、恥ずかしくなった。
「くつろぐの早いな。少し飲もうと思ってたのに」
「あは、ごめん。疲れちゃって。硬い格好が嫌だったから」
いいわけを並べて、それでも少し拓也の顔を見る。少し残念そうな顔で、彼は笑った。
「いいよ、飲もう」
何種類かのビールを並べて、それからデパ地下のお惣菜。美味しそうなおかずに目移りしそうだった。彼は私に黄色い缶のペールエールビールを渡す。久しぶりに会う。そう、二週間は会っていなかったかな。
「乾杯」
二人で同時に飲み干す。拓也もいずみも酒が強く、二人を近づけているのは酒の力が大きいかもしれない。気兼ねなく飲める仲間であり、パートナー。拓也はアパレル関係の仕事をしていて、今日は休みなのだそうだ。アパレルは土日が出勤であるので、基本的にいずみと予定が合うことは無かった。二人のどちらかが相手に合わせないと、ろくに会うことも出来ない。よく三年も続いている、といずみは思う。
ローストビーフをほおばって、至福を味わう。疲れ切って美味しいものを食べると元気が出る。拓也に感謝しかなかった。
「最近、忙しいの」
ぎくり、とした心を、誤魔化そうと必死になる。忙しい、私は忙しいはずだ。後輩と先輩に挟まれて、がんじがらめになることだってある。泣いている後輩を見ても、自分の方が泣きたいと思う事もあるくらいだった。
「忙しいね、もうすぐ年末だし……何だか職場の中間辺りにいるとさ」
拓也を放っておこうと思っていた訳ではない。でも、言えば言うほど言い訳の様になりそうで、口をつぐんだ。
でも、とてもじゃないが、この忙しさで夜に拓也と会おうという気持ちなど、薄れてしまっていた。
「でも今日会えて良かった。嬉しい」
「うん、私も」