lesson1:憂鬱な三十歳(2)
「ねえ、キス……しよっか」
ああ、と私は落胆する。
この人は、私とセックスしに来ているのだ。
それは当たり前だろう。私が拓也の彼女なのだから。それが普通だし、二週間も放置していてセックスしないカップルなんて可笑しいかもしれない。いや、中にはいるのかな。でも拓也がそれ目的でうちに来ていること、自分に会いに来ていることを考えると、自分は応えるしかない。
いいよ、と言ってビールの缶をテーブルに置く。ソファーに乗り上げてくる拓也の身体の重みは、心地よい。この人を好きな事は変わらない。でも、何か、が私の中で変わってきている。
抱き合って、彼の匂いを嗅ぐと途端に女の部分を思い出す。ずっと仕事ばかりしていると、自分が女であることを忘れてしまいそうになる。胸が高鳴って、この人とつながりたいと正直に思う、でも。昔みたいに、心が跳ねるような気持ちにはならない。徐々に、冷めていっているのかもしれない。確信もなくそんな考えが浮かんだ。
「いずみ……会いたかった」
私も会いたかった、とオウムのように繰り返して、燻る性欲と冷めた恋の欠片を確かめる。まだ、まだ私は大丈夫。この人とやっていける。そう言い聞かせながら、彼の舌が胸元に這っていくのを眺める。ちゅっちゅっ、と吸い上げて、慣れた手つきで蹂躙する指。そのまま、濡れた場所にねじ込んで、にっこりと笑う。いつもと同じパターンで脚を開かれ突起を舐められる。
「やあっ、ああっ」
感じていないわけではない。でも何かが昔と違うのは明確であった。その、彼の瞳は真っ直ぐに私を見ているのに、自分は真っ直ぐに見られない気がした。快感が燻って、あと少しなのにもどかしい。
「こんなに濡れて……嬉しいよ、いずみ」
彼がゴムをポケットから取り出す。もう準備をしていたのだ。素早く服を脱いで、彼は反り立ったそこを見せつけて私に「付けて」と言った。
そっと、それを袋から出すと、ピンク色の薄い物体を捻って先端に宛がう。根元まで包んで、そのままそれを指で撫でた。
「いずみのこと、ずっと考えていたらこうなっちゃった。ねえ、入れたい?」
うん、と言うと、嬉しそうに宛がって来る。最奥まで一気に突かれて、思わず身体の底から声が出る。
嬉しいはずだ。
いままで、嬉しかったのだから。
どうしたんだろう、何が私の中で変わったのだろう。気持ちよさが徐々に悲しさに変わっていって、快感に集中できない。腰を振りながら、必死で腫れた突起を擦る拓也が可愛そうに思えた。もう、いいよ、と言いたい自分をぐっと堪えて、精一杯感じているふりをした。快感を感じたくて燻っているのに、相手だけが感じている事が、捻れて心がちぎれていくこの感じ。この感情に名前は、無いのだろうか。
「ああ、いずみ……きもちい……」
「拓也、私もっ、私も……」
「ねえ、いくよ、いい」
「私も、いく……拓也……」
がくがくと痙攣が起きたように私はフェイクする。律動は徐々にゆっくりとなり、そのまま引き抜かれた。
乱れた息を整えると、拓也が取り外したピンクの小さい風船の中に、溜まっている液体があった。
あれが私の中に入ったら、子供ができる……だなんて、少し考えたら背筋が寒くなった。でもそれがどうしてかは、分からなかった。
「それって何?倦怠期ってやつ?」
友達の理恵が、パスタをくるくるとフォークで回しながら言う。拓也は理恵の夫の友達で、多少なりとも繋がりがある。分かってくれるのは彼女しかいない、と思っていた。
「うーん、分からないけど」
「いずみは結婚したくないってこと?拓也君と」
結婚、という言葉がなんだか重くて、どうにもがんじがらめになっている気さえしてきた。
「向こうはどう思ってんの?いずみみたいに、結婚は置いといて付き合うだけがいいのかな?」
自分自身も、付き合う事さえ危ういと思っていた。セックスで快感を得たいのに得られず、燻っている身体。
拓也だけが貪っているように見えて、嫉妬にも似た気持ちが見え隠れする。
「なんか、セックスしても気持ちよくなくて。いけない」
「そりゃあ重症だね」
理恵は諦めてお腹を擦る。予定日は四ヶ月後なのだそうだが、かなり体重が増えていて、理恵は医師に怒られているのだそうだ。
「あたしなんか今妊娠しているでしょ?だからセックスなんてお預けだけどさ。そう言うのって、ケースバイケースっていうか……別に挿入しなくたって気持ちいいことなんてこの世にごまんとあるじゃん。おたくらそういうのしないの?」
「お互いに口で、とかってのは普通にするけど……別にだからといって満足しているかというと」
「もー。それってあたしに話すことじゃないでしょ、拓也君とちゃんと話しな。以外と小心者だね、いずみって」
小心者。そうかもしれない。昔から、大雑把に見えるのは細かいところに突っ込めないからかもしれない。挙げ句には逃げまくってきた気もする。きっと、今の私は拓也という面倒臭い現実から逃げたいだけなのかもしれない。三十になって、更に奥の奥の快感が知りたくなっているのかもしれない。目先の快感じゃなく、何かもっと違う快感。どこへいけばそれが得られるのだろう。
理恵のアドバイスを聞きながら、私はぼんやりと不安になる。
家に帰ってもそれは持続していて、うっかり開いたSNSで呟きを投稿してしまった。
『あーあ。彼氏とのえっちじゃ、最近いけないんだよね』
そのまま、ソファーに突っ伏して眠り込む。理恵はいいなあ。好きな人と結婚して子供を産む――それが幸せと感じる身体なんだもん。うらやましい。私も、拓也に結婚しよう、って言えれば良かったのかな。結婚なんて、全くしたくなくって我ながら笑えてくる。今の仕事も変えたくないし、夫になる人にも生活を侵食されたくない。自分が自分でいられなくなりそうで、不快感しかなかった。