lesson1:憂鬱な三十歳(3)
起きると、夜の十時を過ぎていた。理恵と話し込みすぎて疲れたのかもしれない。そう思いながらふと、スマホの通知を見ると、SNSのダイレクトメールに通知が来ていることに気づいた。また何かの勧誘とか、変な宗教とか。自己啓発セミナーとかから、直接ダイレクトメールをもらうことがしばしばある。それかと思い開いてみると、「ナルミヤ」という男からだった。
「誰?また変な勧誘かな」
そのまま内容を確認する。メールの文面はとても丁寧で、事務的に見える。
『初めまして。ナルミヤと申します。
呟きを拝見致しまして、不躾ながらメールしてしまいました。
いずみさんは、今性的に満足していないとお見受けします。
僕の趣味はロープなどの縄で女性を縛ることなのですが、それで大変な満足を得ております。いずみさんの性的興味がどこにあるのか、それさえ分かれば、満足出来るのではないかと思ってしまいました。
初対面の男にこんなメールをもらって不快かと思いますが、もし僕で良ければお話聞かせて下さい。』
「すごく丁寧な文章」
思わず、一人で呟いてしまった。
こんなメールに返す必要は無いと思いながらも、「ナルミヤ」という男の趣味が気になってしょうが無い。
縄で縛るとは、一体どういうことなのだろう。
返信してみようか。
少し、ほんの少しだけ胸が躍るのを感じながら、ダイレクトメールに打ち込んでゆく。こんな、誰とも知らない男とメールをし合うなんて、今までの私なら考えられない。でも、今の拓也との状況を考えると話を聞いてみたい。自分でも、どうして彼で絶頂できなくなったかは分からないのだ。それに、メールだけなら別に問題ないだろう。会うわけでも何でも無いのだ。
『ナルミヤさん
メールありがとうございます。初めてのあなたにこんなことを話すのもおかしいことなのですが、いつからか彼氏とのセックスでいけなくなってしまいました。彼氏とは三年付き合っています。
今まではいけていたんです。でも、仕事も忙しかったり、彼に合わせるのも億劫になってしまって。
自分のしたいことや、震えるような素敵な事って、今まで無かったような気がします。
どうしたらいいのか、実は結構悩んでいます。
挿入する前に……そう、前戯でいってしまうような、そんな行為がしてみたいです。』
メールを送ってから、はあ、とため息をついた。
知らない男にこんなことを暴露してしまうほど、自分が追い詰められていたのに驚く。今までの私は、結構辛かったんじゃないか。そう思いながら、「ナルミヤ」からのメールを待っている自分が、いた。
『いずみさん
返信ありがとうございます。
大変悩んでおられるのですね。お辛かったでしょう。女性が絶頂できない状態なのは僕も辛いです。
僕にとっての喜びは、女性が快感で震える様を見ることなのですから。
もし良ければ、僕の性癖を体験してみませんか?
もちろん、いずみさんは彼氏がおられるようですし、愛撫以上の事はいたしません。約束致します。痛みの伴うことはいたしません。僕でしたら貴女を必ず満足させられると思いますよ。』
ごくり。
自分の喉が鳴るのが分かった。
僕の性癖を、という言葉が何を指しているのか、いずみはすぐに理解できなかった。
「縛られる、ってこと……?」
この人と会ってはいけない、という予感はしているのだが、どうにも好奇心が止められない。しかも、縛るだけ、と言っているのだ。もし危険な男だったら、股間を蹴って帰ってくればいい。そう思った。
気を許さなければいいだけだ。そう自分に言い聞かせて、いずみはメールを返す。
その文面には、「宜しくお願いします」と書いてあるのだった。
「ナルミヤ」が指定してきた場所は都内のカフェで、いつもいずみが行っているところとは全く違う店内であった。馴染みの店はガヤガヤとうるさく、人がひしめき合っているのだが、このカフェは音楽も洗練されていて、自分が違う世界に来たみたいに感じた。なんとなく、仕事帰りにいつもと違う香水を付けて、化粧をしっかりしてしまった自分がいる。拓也にはこんなに化粧をすることも無い。どうやら自分は、緊張しているのだろう。拓也と付き合ってから、彼以外の男と二人で会う約束をしたのは初めてだった。唇のグロスが、注文したカップに付いているのを指で拭って、いずみは「ナルミヤ」を待った。
もう逃げられない。いや、大丈夫。いつでも引き返せる。変な人ならすぐに帰ればいいのだ。話もせずに。それか、話だけしてから帰ってもいい。ごめんなさい、と言えばいいことだ。それで全てが終わる。何も後悔することなんて無い。自分に何度も言い聞かせた。自分が座っている場所は伝えているから、きっとここに直接来るだろう。髪型も洋服さえもメールしてしまっているのだ。ああ、神様。このまま、来なくてもいいから、もうこんな時間を終わらせて欲しい。いずみは後悔していた。待ち時間で、完全に心が折れていたのだ。
「あの」
男の声で話しかけられて、いずみはびくんと跳ね上がる。
見るとカフェの店員さんだった。
「待ち合わせの方がお見えです」
あ、と短く声を出してしまった。そこには、切れ長の目の、薄い顔の男性がいた。細い身体ではあるが、なんとなく精悍な印象を受ける。グレーのスーツ、ネクタイはネイビー。とてもクールに見える。この人が、本当に昨日のメールをくれた人物なのだろうか。あんなにも優しい文面を書く人とは思えなかった。
「いずみさん、ですか」
話しかけられて、思わずはい、と返事をしてしまった。にこ、と優しく笑う彼は、本当にメールをくれた人物なのだろう。クールな印象は一気に変わる。ああ、この人だ、と実感した。
「成宮です。お会い出来て嬉しいです」
成宮はそのまま椅子に腰掛けた。じっと見つめられて、なんだか恥ずかしい。どうしてこの人はこんなに見つめるのだろう。
「成宮さん、その、そんなに見られると恥ずかしい、です」
「ごめんなさい。いずみさんがあまりにもお綺麗なので。失礼しました。」
お世辞だと分かっているのに、心の中が跳ねるのが分かる。口車に乗っちゃいけないと、自分に言い聞かした。
彼はなにも注文せず、手を組みながら私に話しかける。
「ご連絡くださって、嬉しかったです。僕で良ければお話聞きますので。……で、今日は大丈夫ですか」
まるで仕事のように淡々と聞かれて、少し戸惑う。
「ええと、その……」
「ええ、僕の性癖を体験する、という」
「あの……不安です、とても」
正直に自分の気持ちを言ってしまった。誰でも不安だろう。今までしたことの無い事を体験するのだ。
「いずみさんが後悔しているのであれば、僕は無理にとは思いません。いずみさんのお話だけを聞いて、今日は帰りますよ」
「あ……」
心の中を見透かされてる。そう思った。この人は読心術でもあるのだろうか。
「僕の性癖は特殊なので。いずみさんご本人が本当に納得してからでないと、する意味が無いのです」
「そう、ですね……確かに」
少し緊張が解けてきた。私は何をしているのだろう。でも、今の自分の気持ちは燻っていて、このまま帰るのは違う気もする。