lesson2:縄の痕(4)
「どうぞ、キールアンペリアルです」
マスターが細いフルートグラスを持ってきてくれた。相変わらず、薄いラズベリー色の炭酸が弾けるこのカクテルは美しい。一口飲んでも、やはり期待通りだった。美味しい。身体中が歓喜しているのが分かる。
「成宮様が今日、どこから来るのか知っていますか」
突然マスターに言われて、私はいいえ、と答える。どこから、というのは……職場からではないのだろうか。
「この前は、仕事帰りだとお見受けしていましたが」
「あの方、空手有段者なんですよ。稽古が長引きそうだって。今日は半日休んで稽古に行くと、昨日仰っていました」
プライベートなことを、私なんかに話していいのだろうか。とても気になる。
「あの、それを私に話していいものか……私には分からないのですが」
「……失礼しました。昨日、コーヒーを飲みに来ていただいた成宮様が、そう言っていたのです。もし、遅れたら稽古の所為だと。そういずみさんにお伝えくださいと」
稽古……空手の?私は仕事を終えて一目散にここに来た。でも彼は自分の趣味で遅くなっていると、そういうことなのか。少しびっくりして、はあ、と緊張をほぐすため息を一つした。何もこんな、気を詰めて会わなくてもいいと。そう言いたかったのだろうか。
「そう……ですか。いいですね。夢中になれるご趣味があるというのは」
「いずみさんは何かお好きなことは」
私は何が趣味なのだろう。何も……読書さえもすぐ飽きてしまう。映画も眠くなるし、好きな事と言えば……やっぱりお酒かもしれない。昔、父親の酒が過ぎることで、母と喧嘩しているのが嫌だと思っていたのに、大人になってみると自分も父親のように飲むようになってしまっている。趣味が酒だなんて、とんでもない女になっている気がする。
「お酒が好きです。他のことは……趣味と言えるほど没頭したことはありません」
「そうですか、それでは、これを」
マスターが差し出したのは、一冊の本だった。
「いずみさんにお貸ししますよ、次いらしたときにでもお返しください」
そこには「江戸川乱歩傑作集」とあった。
「江戸川乱歩……読んだことないです」
「私、ミステリーが好きでね。でもいずみさんと同じで、すぐ飽きてしまうんですよ。その点、この話は短編集なので、飽きる前にお話が終わりますよ」
へえ、と思わず声が漏れる。それならもしかしたら読めるかもしれない。少し期待しながら、御礼を言って鞄の中に仕舞い込む。久しぶりに、本を読む事になりそうだ。
その時、カランカラン、とバーのドアが開く音がした。成宮だった。
彼は前回とは違う格好をしていた。黒のデニムに、明るいグレーのジャケット。暑いのかコートは脱いでいて、腕にかけている。前回のかっちりとしたスーツとは打って変わって、スニーカーでとてもカジュアルだった。こうしてみるととても四十歳には見えなかった。
「すみません、お待たせしました」
低く、艶やかな声。ああ、そうだ。この声だった。一週間経って、忘れそうで忘れない声だったのだ。今、また私はこの声を録音でもするかのように噛みしめていた。
「……こんばんは」
そういうのが精一杯だった。会って、勘違いでしたと帰ればいいなんて、いったいどうしてそんなことを思いついたのだろう。成宮の声を聞いてしまったら、そんな事は霧散した。所詮、無駄なあがきだったのだ。
「すみません、お待たせして。今日しか稽古日が無くって……せっかくいずみさんと約束していたのに。申し訳ない」
「いいんです、成宮さんは空手をなさっているんですね」
成宮は優しく、微笑みかける。そう、この人は一見クールに見えて、その実とても優しい笑顔をするのだ。
この笑顔に、絆されてしまう。自分にとって、害悪な人物には見えないからだ。果たして、本当にそうなのか……
「空手は黒帯を取ったので、今は他の格闘技に手を出しています。総合格闘技……少しまえはマーシャルアーツ、という言葉が流行りましたね」
楽しそうに成宮は話す。この人は酒もやらないし、多趣味な人なんだろうか。確かに、成宮の身体は適度に肉がついていて、しかも太っていない。定期的に鍛えているというのは頷ける。
「格闘技……私には全く縁がなさそうです」
ふふ、と成宮は笑う。ふんわりと、優しい雰囲気のこの人が、誰かを攻撃するだなんて、想像できない。
「今度、見に来ますか?いずみさんのような可愛い方が来たら、うちの道場の男達はがぜんやる気がでるでしょうね」
「そんな、私なんかが見に行っても」
首を振る私に、彼は是非、と勧めた。今までの私では全く関わらないであろう世界に、少しずつ、足を踏み入れている気がした。
向かいの席に成宮がかけると、そこからふわりと舞った空気が鼻先を掠める。今日は、石けんの匂いがする。そうか、成宮は道場の帰りにシャワーを浴びているのだ。清潔な香りに、こわばっていた心がほぐれていく。
マスターがアイスコーヒーを持ってくると、成宮はストローを使わずにそのコップごとグイ、と飲む。喉が渇いていたんだろうか。
「すみません、少し走ってきたもので。喉が渇きました」
「そんな、私は何時でも良かったのに」
「いいえ。会いたかったんです……貴女に。……いずみさん」
じっと見つめられる。ああ、この瞳……そうだった。この人にこうして見つめられて、私は難なく縄の世界に入ってしまったのだ。そうだった……ありありと思い出す、赤い縄の扇情的な光景に、思わず顔が赤くなるのが分かった。
「僕に会って、思い出しましたか?あの日のことを」
いや、成宮に会ったから思い出した訳ではない。その緊縛の世界を忘れてしまわないよう、自分で何度も何度も反芻していたのだ。でもそんなこと、口が裂けても言えない。なのに自分のこの、収まらない動悸を、彼は察している。手に取るように私の気持ちを知られている。そんな気がした。
「……成宮さんに会って、あの……あんな事をしてしまったって……後悔しました。すごく」
「ほう」
「でも、それより、また……会いたいって、思ってしまって。どうしようもないですね、私。彼とも約束をしているのにあなたとこんなことを、また」
「いいんですよ、それで。僕は彼氏と争いたい訳ではないですから」
「……」
「単純に、僕はいずみさんを縛りたい、ただそれだけです」
背筋にびりびりと電流が走ったように、成宮の言葉に反応する。何だろう。どうしてこんなにも彼は私を惹き付けるのだろう。
あの時の赤い縄が脳裏に浮かんで、途端に顔が赤くなるのが分かった。
「……縛られたいですか、僕に」
どきっ、どきっ。動悸は最高潮になる。だめだ。自分のこの気持ちは、知られている、やっぱり。