lesson2:縄の痕(3)
『成宮さん
このまえはとても素敵な経験をありがとうございました。正直いって、初めての体験ばかりで私には刺激が強かったのです。でも、またあなたに会いたいと、そればかり思ってしまっていました。
すぐにでも会いたいですが、あんなに深く快感を引き出されると次の日が働けなくなりそうで、金曜か土曜日にお願いしたいです。すみません、わがままばかりで。』
「……」
他に恋人がいるなんて思えない言葉を羅列して、自分でも恥ずかしい。しかも、今拓也とクリスマスの約束をしたばかりで、また成宮に会いたいとメールを打っている自分。自己嫌悪に陥りながらも、身体の奥に渦巻いている何かを無視できない。このどす黒い気持ちは何なのだろう。拓也と別れるでも無く、既婚者とまた会おうと言う自分の浅はかさに呆れる。拓也と別れてしまえば好き勝手出来るのに、それをしない自分の狡さに吐き気がする。
すぐにメールが返ってきたのに飛びついて開く。成宮の文章を読むと身体中が喜んでいる気がする。抗えない何かに、身体が歓喜しているのが分かる。
『いずみさん
ありがとうございます。僕の大好きな緊縛を気に入ってくださって本当に嬉しいです。
いずみさんが喜ぶことなら僕はなんだってしてあげたい。
何度も何度も、貴女が快感で咽ぶ様を思い出して僕は……
いずみさんの事ばかり考えて、仕事もおざなりになりそうですよ。
金曜日、また前回と同じ時間でお待ちしております。』
メールの返信も忘れて、脱衣所で服を脱ぐと風呂場に入る。湯船に浸かって、お湯を被った。
垂れていく水滴と、充満する湯気。その中に、成宮の姿を再現した。
そっと、自分の肌を見つめて、赤い縄が食い込んだあの感触を、思い出す。
「……」
成宮の声が、自分の名を呼ぶその瞬間を、反芻する。舌が自分の胸をどんな風に味わったか、その記憶を再現しながら、自分でそこを触っていく。
「……あっ……」
そのまま、もう片方の手を下半身に伸ばす。もし、彼の舌がここに触れたら。きっと、私はどうにかなってしまうのだろう。次は、次の金曜日はきっと。そんな風に期待して、徐々に高まっていく。
「……!」
無言で絶頂して、その余韻で後悔する。馬鹿だ。こんなことをしても、何も変わらないのに。空しさと、残った火の燃えかすのようなものを、心の中にしまって天井の水滴を見た。
「馬鹿だ、私」
一筋流れていく涙をお湯で誤魔化して、浴槽から出る。成宮の後ろ姿を、思い出していた。
「何?何かあんの?今日。浮かれてない?」
隣の田淵とリストの仕事を終えて、就業間近に声をかけられた。田淵は人の事をよく観察している。
「え?そうかな……別にいつも通りだけど」
「ふーん、まあ彼氏と会うとかそういう感じ?うらやましいねえ、結構長いよね、付き合ってから?同じ人?」
同じ人、と言う言葉にぎくり、としながら、うん、と答える。まさか、得体の知らない四十代の既婚者にこれから縛られに行くとは言えない。そんなに表情に出ていたかと思うと恥ずかしさが込み上げる。そんな風では困る。ポーカーフェイスが出来ないのに、こんな背徳の行為をするべきでは無いのは分かっているのに。
「ま、楽しんで。俺も彼女欲しいなあ」
「はは、いい人できるよ、すぐ」
適当に返事をして、PCの設定を終了する。そそくさと帰り支度をする私に、田淵も続いて電源処理をしている。
「花金だし、どっか飲みに行こうかな、そうだ、清水さんとかいいかも」
えっ、と思わず声が出る。どうして?どうして清水なのだろう。波風を立てて欲しくない。只でさえ、また私にとばっちりが来そうだ。
「ちょっと、わざと言ってる?もっと妥当な人にしときなよ」
ふふ、と田淵は笑う。
「ま、俺にとっての妥当が誰かを決めるのは、俺。楽しんで来なよ、デート」
ひらひらと掌を振って、田淵はサヨナラの合図をする。何も言うことが出ずに鞄とコートを持って職場を後にした。何もなければいいな、と思いながら田淵の後ろ姿を見た。
外は寒い。来週がクリスマスだなんて、信じられないくらい時の流れは早い。三十歳の今年は、あっという間に過ぎていきそうだ。三十代なんて、昔はおばさんだと思っていた。きっと三十歳には、結婚して子供もいて。そんな想像を何度もしていたはずだった。でも、蓋を開けてみれば、二十代となんら変わっていない。変わっていたとしたら、心がほんの少し、荒んでいること、かもしれない。誰か他の人と一緒に住む、ましてや子供を作るなんて事、今の私には興味も無いし、何故か少し嫌悪感が湧いてくるのだった。
定時にあがったのに、この駅の人の多さはどうだろう。少し目眩がする。花金の今日、仲間で飲みに行こうとする人のなんと多いことか。そんな中で、私だけが一人、異質なのかも知れないと思う。彼でもなんでもない、何も知らない男にこれから縛られに行くというのだから。でも、成宮はきっと、他の女性ともこういった関係を築いてきたのではないだろうか。そう思うと、この、ほぼ満員に近い電車の中にも、誰にも言えない秘密の関係を抱えている人はいるような気がする。私だけでなく、他の誰かも……。
該当の駅に着いて、少しだけ緊張する。あの日の事がありありと思い出されてくる。まだ一週間しか経っていないのだ。成宮の声は、未だに脳内に響いている。早く会って確かめたい。私は、また、彼に縛られたいと思うのだろうか。あの日、ただ誰かと刺激的に過ごしたかっただけではないのだろうか。会ってみれば分かるはずだ。もしかしたら、一時の気の迷いかもしれない。拓也との電話を思い出して、もしそうなら気持ちが楽になるとまで思う。そうしたら、私は来週、拓也と幸せなクリスマスを過ごせるのに。
例のバーに着いて、そっとドアを開ける。マスターがいらっしゃいませ、と声をかけてくれた。
「成宮様は、少し遅れるそうです。何か召し上がりますか」
遅れる、そう聞いて、少しだけほっとする自分がいた。これから必ず会うのに、往生際が悪い自分に嫌気が差す。やっぱり自分は臆病、小心者なのかもしれない。職場でも、プライベートでも。
「あ、じゃあ……この前と同じもの……え^と名前、なんでしたっけ」
「キールアンペリアルですね。お待ちください」
この前と同じ個室に案内されて、コートを脱ぐ。今日はエンジ色のチェックのプリーツスカートと白のセーターを着ているのだが、もし縛られたらと思ってインナーに白のスリップを着ている。自分でも、脱がされた時のこと、縛られた時の事を考えて服を選んでいる。成宮と会って、やっぱり自分の勘違いでした、今日は帰ります、なんて事が起きるのだろうか。全く自分の行動にそんな兆しはなかった。それでも心のどこかで、今日でこの関係が終わればと思っている。矛盾している……。