lesson3:セーフワード(3)
成宮さん
メール拝見しました。その、縛られるのは興味がありますし、成宮さんと会うのはそのためと行っても良いかと思っています。でも、他のことは、少し考えさせて下さい。契約のことは置いておいて、私もまた会いたいと思っていたところです。あの時の快感は忘れられませんし。
スマホを置いて、慕情を隠したメールに恥じる。あくまでもセフレ。そんな風に振る舞おう。私には彼がいる。ほとぼりが冷めれば、拓也の元に返るべき人間だ。それを忘れてはいけない。だからこそ、割り切ろう。
すると電話番号が書かれた成宮からのメールが届く。
いずみさん
もし、よろしければ、ですが。
貴女が僕と同じ気持ちであることを切に願います。
×××―××××―××××
……話したい。
声が聞きたい。
あの艶やかな声で、私の脳髄を痺れさせて欲しい。
気づくと、すぐに電話番号を押していた。
トゥルル、と一回待ち受け音が鳴る。すぐに、「はい」と低い声がした。
「あの、……いずみ、です……」
「いずみさん。待っていました。貴女の声が聞けて嬉しい」
身体が一気にざわついているのが分かる。そして、じっとりと、また身体の奥が濡れていく。声を記憶し、快感をくれる人間だと認識している私の脳みそが悩ましい。罪深い、そう思いながら私は成宮の声に溺れる。
「成宮さん、私……契約がどうこうというのはちょっと自分でも分からなくって。なので、どうしようかと悩んでいるところです」
「いいんですよ。それで、僕は契約無しでも貴女と過ごしたいですから」
少し、ほっとする。契約が無ければこの関係は無し、と言われるかもしれないという恐怖は無くなる。
「そう、ですか」
良かった、という言葉が出そうになって、慌てて口を噤んだ。
「それでですね。提案なのですが」
成宮の口調はいつもの甘い口ぶりでは無く、事務的に話していてそれに少し寂しく思う。あの、痺れるような言葉と声が欲しい、そう思ってしまっている自分がいた。
「契約はしなくて構いません。お試し、をしてみるというのはどうですか」
「お試し、というのは」
電話の向こうで、くす、と笑った吐息がした。そうだ、この人はいつもこの笑い方をする。あの時でさえも。
「ドミナントとサブミッシブの関係を、試してみませんか、と言っているのです」
「は、あ……」
何と答えていいか分からず、なんとも間抜けな応答をしてしまった。どういうこと?試せるものなのだろうか。
「どうですか、貴女の都合が良ければ今週の金曜日にでも。ああ、彼との約束事があればそちらを優先して下さい」
彼との約束事は、もう終わってしまった。それを、言うのも何だか気が引ける。ぐっと堪えていると、知らぬうちに歯を食いしばっていた。
「……クリスマスは、楽しかったですか」
ぎくり、とする。知っている。この人は、私が昨日拓也に会っている事を、なぜだか知っているのだ。
「……どうして」
「……いいえ、いいんです。言ってみたかっただけですよ」
ずきん、と心が痛むのが分かる。私の彼に会って、何をこの人に気を遣う必要があるのだろう。いいんだ、この人とは、いつか関係が切れるのだから。……でもふと、拓也との関係を切るかも知れないと考えていた自分を思い出す。心が、ちぐはぐになってきているのを感じる……
「……いきます、金曜日。いつものホテル、ですか」
「いいえ。金曜日は私の家で。そうしたらいろいろな事ができる。貴女にも、お話したいこともありますし」
成宮の秘密が聞けるのか、そう思うと心が高鳴る。どんな人かが分かるかもしれない。
「セーフワードを、考えなくてはいけませんね。自分が限界だと感じたときにいずみさんが言う言葉です。考えておいて下さい」
「……はい」
日常から非日常へ。成宮の言葉は、その世界に行くために必要なチャンネルの切り替えに必要なのかもしれない。
「それでは、金曜日。〇〇駅の東口に来て下さい。迎えにいきます。それでは」
「あっ、あの」
私が遮ろうとすると、ブツッと電話は切れた。乾いた電子音が、耳に纏わり付いて離れない。
金曜日、会えると思うと胸が高鳴る。忘れていたオムレツを口に含むと、すっかり冷えていた。
罪の意識を胸に仕舞い込んで、私はまた、縛られる夢を見る……のだった。
成宮が指定した駅は自分の職場より遠くて、仕事終わりに行くと小一時間ほどかかった。しかし都内ではあるので、十分本日中には帰れる。同僚の田町も、近頃は金曜日ともなれば私が彼と会うと理解しているようで、多少の残務は残すか、彼がやってくれるかの二択になっている。時計の針はもう七時を指していた。人の流れがすごい。花金であるのとこの駅が大きな駅であることで、改札は人混みとなっていた。構内の柱にもたれて、メールをチェックする。すると目の前に立っている人物がいた。
「お待たせしたようですね、すみません」
スマホをしまって、成宮を盗み見する。スーツにコート、黒い鞄。初めて会った時を同じ格好だった。しかし、いつもの事務的な雰囲気は少しだけ、和らいでいるように見えた。
「今日は、嬉しいです。貴女がこうして僕の家にまで来てくれるなんて」
「……私も、今日は……成宮さんに聞きたくても聞けなかったことがあるので、それが分かったら、と」
ざわざわと騒ぐ人混みの中を抜けて、信号を二人で待つ。深い黒の空に、ネオンがキラキラと輝く。大都会、という言葉がうってつけである。自分の住んでいるところ、会社の駅はここまで都心では無かった。
「僕は、昨日ろくに眠れませんでした。貴女が今日、家に来るなんて……なんというか、感慨深くて」
「大げさです」
そう私がいうと、成宮は視線を流す。その、左目の黒子を見ると途端にピンク色の感情が芽生えていく。縛られる快感と、彼の指先、舌先の感触。そればかりが思い出されて、子宮の奥が疼くのが分かる。
(ああ、私……発情している。これが男の人を欲するということなのか)
今まで体験したことがない感情。この人に触れてもらいたいという感情。心の奥底から溢れて止まらないこの感情は、一体何と言えばいいのだろう。
信号を抜けて、更に歩いて行くと、繁華街からは抜けて、閑静な住宅街となる。豪邸ばかりが並ぶ地域の中に、高いビルのマンションが見えてきた。
「こちらです。どうぞ」
暗証番号を入れ込むと玄関のドアが開いた。成宮はエレベーターで⑩、という番号をそっと、押す。その人差し指さえも、見ると心が濡れていくのが分かる。どうしよう、私は一体どうしてしまったのだろう。まだ二回しか会っていない。しかも、この人とセックスはしていないのだ。どうしてしまったのか自分でも分からなかった。
「いずみさん、そんな目をしないで下さい」
「えっ」
「ここで押し倒したくなりますから」
目を伏せて、成宮を見ないようにした。だめだ。この人を見てしまうと、自分の発情を止められない。そしてそれを、成宮も知っている。知られている。私が発情し、雌の匂いをまき散らしていることなどこの人には全て知られているのだ。
エレベーターの中で、そっと吐息になる自分の呼吸を我慢する。成宮に触れて欲しくてたまらなかった。
二人でエレベーターの十階で降り、そのまま奥に進んでいくと無機質な玄関のドアに成宮が触れる。カードキーで解錠すると、ゆっくりと扉を開いた。