lesson3:セーフワード(4)
「……どうぞ、お入りください」
成宮の声で、ゆっくりと中に入る。普通、生活をしている家庭に入ると、その家独特の匂いがするものだが、家の中に入ってもそんな生活の匂いはしなかった。まるで新築のような、内装の匂いがするだけだった。
ヒールを脱ぐと、成宮は先に靴を脱いで自宅内にあがっていた。コートを脱いで、ハンガーに掛ける。自分も脱ぐと、成宮はそれを無言で受け取り同じくハンガーに掛けた。
「お座りください、何もないところですが」
自宅に何もない、というのは大げさだが、やはり普通の家庭では無いのが見て取れる。テレビもなく、リビングらしきこの部屋にはソファーと、キッチン。その水回りには何も置いてあるわけでもない。このキッチンは使われているのだろうか。自分の家と比較しても、生活感がまるで無かった。
成宮の妻は、ここに住んでいるのだろうか。ここで家事をしているようには見えない。
「まずは……ココに来ていただいてありがとう。いずみさんが私の自宅に来る、それだけで僕はもう、舞い上がってしまっていますよ」
「いえ、あの……私、お聞きしたいことがあって。その、契約、あなたとの関係のことで」
「ええ。もしかして……私の妻のことですか」
まさにそのことを聞きたかったのだが、あまりに図星をさされて口が上手くきけない。
「前に気にしてくださっていましたから。そうですね、気になるのでしたら……お話ししましょう」
ただし、と成宮は付け加えた。
「今日、貴女と僕は、ドミナントとサブミッシブ。それを体験する……それが条件です」
条件。その言葉にぎくり、とする。
私と成宮の関係は、色恋では無いのだと、そう言われているも同然だった。
「分かりました。それで結構です。あなたが私と……その、していることが不貞になるならと……気になってしまって」
くす、と成宮は笑う。
「気になりますか?そうですね……それはいずみさん、貴女も同様のはずでは」
……何も言えない。その通りだった。
何も変わらない、関係性は……ただ私は、結婚していないだけ。成宮と私は同じ穴の狢である。
「……まあ、いいでしょう。私には妻はいますが、ここに彼女は住んでいない。そして、ここ十年は彼女とセックスはしていません。それが、私が契約者を探す理由……」
「えっ……」
「後は何か?質問はありますか」
「……奥様とは住んでいない、のですね」
「ええ。今(・)は(・)。他には、何かありますか」
「その、私の他にも、こういった女(ひと)が……」
いつのまにか、成宮はソファーに座る私の隣に腰掛けていた。スーツのジャケットを脱ぐ。彼の爽やかな男の匂いが、鼻についた。
「いいえ。いませんよ。いずみさんの他には。今まではいましたけれど、今は貴女の事しか考えられない。貴女を、縛ることしか……」
妻がいる人との情事、それには変わりは無い。ずきんと痛む心は、そこからじわりと広がって背徳感という甘い香りに仕上がっていく。それに合わせるように、成宮は私の首筋をそっと指でなぞる。
ぞくぞくと電流が走るように快感が思い出される。いつもと同じ、成宮の優しい指先。ふっと耳許に息を掛けられて、吐息が漏れた。
「……セーフワードを決めましょう。いずみさん、何にしますか」
「あ……」
セーフワード。この世界を体験するには必要な言葉と、成宮は言っていた。何にすればいいのだろう……咄嗟に、口が開く。
「成宮さんの名前は、何というのですか」
すると成宮は驚いたような顔をした。それから、寂しそうに笑うと、こう言う。
「……正樹です。正しいに、樹木の……」
指先はそっと、胸を撫で始めている。耳の中に舌が入る水音がした。勝手に背骨が仰け反っていく。
「正樹さん、と。私は正樹さんと、呼びます。それ……がセーフワード……あっ……」
「了解しました。それでは、始めましょうか」
そっと、舌が耳から離れたかと思うと、唇に重なる。そのまま、ソファーに倒され、身体が沈み込む。腕の中にすっぽりと収まり、歓喜する自分。舌の絡まる音、その甘い刺激に没頭していく……
ブラウスのボタンを外そうとする成宮の髪の毛が、少しだけ乱れている。その髪の毛にときめく。こんなにしっかりとした、社会的地位のある既婚者の年上男性が、私に溺れていく過程を見る楽しさ。こんな楽しみ方を、今までしたことがあったろうか?セックスにこんな楽しさがあるなんて、全く知らなかった。それを、この人に教えられている、なんて。しかもまた、私はこれから縛られる、というのだから。拓也の事が頭に過って、それでも彼の事を聞かれなくて良かったと思っている自分がいる。ああ、何もかも忘れたい。拓也と付き合っていることも、今は忘れてこの人との情事に身を預けたい……
ボタンが外れると、ピンク色の下着が顔を出す。そのレースと肌の合間に、そっと顔を埋め、そこを嗅ぐようにする成宮。大きく空気を吸い込んで、まるで匂いを堪能しているかのように見えた。
「あの……はずか、しい……です」
「……いい香りです。いずみさんの匂い……」
乗られている重さも心地よくて、成宮が体重を掛けないように調整しているのだと気づく。それでも、私の自由はない。上手く、逃げられないように調整しているのが分かる。
「とても興奮します……今日は、一回だけじゃ帰せませんよ。何度も、貴女を狂わせたい」
言葉が脳みそに突き刺さる。成宮の言葉に翻弄される。じんじんとその言葉さえも心に刺さって、何をされるのかと期待で濡れていく。
「貴女が嫌、と言っても僕は止めません。セーフワードが出ない限りは。……いいですね?」
その言葉の意味を頭で必死に考える。でも目の前に甘美な誘惑には逆らえなかった。こくん、と弱々しく頷いて、また私は成宮の口づけを受けた。蕩けそうに、激しく、舌が絡まっていく。
私は何を欲しているのだろう?
妻帯者とする、こんな行為の中で、何か決定的なものを探しているような気もする。私に無くて、成宮にあるもの。それを探したくて、こんな風にまた肌を合わせるのかもしれない。
隆起した胸に手を這わす成宮の、冷たい目。少し怖くて、でもゾクゾクするその瞳。際の黒子が更に色気を増して見えていく。私のブラウスのボタンが外され、開かれていく。袖のボタンまで丁寧に外して、じっとりと見つめられた。
「今日はピンク色、ですか」
恥ずかしくなって、横を向く。ソファーに横たわった自分は、リビングの絨毯を見るしか無かった。ふかふかと、まるで毛の長い犬のような絨毯。デスクはガラスで出来ており、インテリアも洗練されているのが分かる。でも、生活感は無い。