lesson5:背徳の味(4)
「どうぞ」
成宮を、何もない自宅に案内する。玄関から入ってもらい、靴とコートを脱いだ成宮を、小さい二人がけのソファーに座らせた。生憎、飲み物は何も無い。酒も冷蔵庫には入っていない。確か、インスタントのコーヒーだけがあった気がする。
「お湯を沸かすので、コーヒーでも」
キッチンに立って、薬缶に日を付ける。成宮は何も言わずに黙っていた。
「あの、何か……あったのですか」
成宮は一言。いいえ、とだけ言った。
その拒否の言葉は、何かがあったことを物語っているように見える。
完全に自分のテリトリーで、いつも私を犯している成宮が、私の家に来ている。これは、どういうことなのだろう。
「……すみません、あの……あまり綺麗な家では無くって。私、そんなに女らしい女ではないんです」
弁明の様に呟くと、成宮は私の方を向いてこう言った。
「……何をおっしゃるんですか、貴女はいつも、素敵な女性ですよ」
そう言った成宮の顔は、酷く悲痛にまみれていて、思わず彼を抱きしめて……しまった。
「……」
無言で座っている彼を抱きしめる。それは、いつもしていることとは正反対に思えた。私が彼を、癒やしている……本能的に、そうしたいと思ってしまったのだけれど。
そっと、回される成宮の腕。逞しく、引き締まった胸板が、服越しでも分かる。このまま、こうしていられたら……
ピー、という薬缶の音がする。私は慌てて、キッチンへと火を止めに行った。
ゆっくりと、二人分のコーヒーを入れる。成宮はBlackだったような気がする。何もコーヒーの中には入れずに、お盆にのせて成宮へと出す。小さいテーブルの上に、二人分のマグカップ――いつも、私と拓也が使っているものだった。
コーヒーの湯気と共に香りが漂う。それを嗅ぐようにして、成宮はカップに口を付けた。
「いただきます」
そういうと、一口飲んだから、ふう、とため息をついた。
目線は、――私に。
何か言いたげで、でも言いたくないような、迷いのある目をしていた。
「今日は、どうされたんですか、あの……差し支えなければ、お話して下さい」
「いいえ。これは……僕自身のことですから」
拓也とドライブしていたところを見られた、とかで無い事は確かだった。一瞬その線も考えたが、成宮が私に嫉妬するわけが無い。彼は妻帯者なのだ。
「そう、ですか……」
何も聞くことが無くなり、私もコーヒーに口を付ける。久しぶりに、自分の家で飲むコーヒー。それなりに美味しかった。が、なんだか物足りない。この前成宮と入ったカフェの味を思い出すと、やはり雲泥の差がある。
そっと、成宮の手が私のそれに重なる。とても冷たい手。外を歩いてきてとはいえ、人間の手はこんなに冷たくなるのか、と驚いてしまう。
「成宮さん、身体が冷えていますね」
「そうですか、僕は……確かに今日、何も食べていないかもしれません。体温を維持できていないのか……」
半ば独り言の様に呟く彼を見ながら、私は浴室に歩いて行く。
「お風呂、浸かっていきますか。こんなに酷く冷えてしまっては、帰れませんよ」
成宮の顔を見ないようにする。彼は憔悴している。理由は分からないが、私の出る幕では無いのだろう。何か、一つでも出来ることがあるとしたらこれくらいのことしか無い。私に会いたいと、来てくれた成宮にこのくらいは……
私が湯船に湯を張っている間、彼はコーヒーのカップを掴んで温まっていたようだ。
「ちょうど、私も今、シャワーを浴びたところで。成宮さんも、温まってはいかがですか」
「そう……ですね」
「気分が落ち着くかも、しれませんよ」
ソファーには座らず、床に座ったまま私は言う。鳴る飲み屋と自分の部屋にいるなんて、なんとも奇妙な気がする――さっきは、家に上がろうとした拓也を帰らせているのに。一体私は、何をしているのか……
「いずみさん」
突然名を呼ばれて、はい、と驚きながらも返事をしてしまっていた。
「……触れても、いいですか」
「……」
どう言ったらいいのか分からない。今、触れられたら……彼氏に拒否したセックスを、してしまいそうで怖かった。
「僕が怖いですか」
「……怖いです。私――」
正直に言いたい。成宮について。私が、どう思っているのか……
「今成宮さんに触れられたら、私……」
「僕は触れたいです。貴女の肌に。貴女が僕には必要なんだ」
「でも、あなたには……奥様が」
「そう。そして貴女にも……彼がいます」
「……」
都合のいい女であるのは分かっている。それを分かった上でも、私は成宮に触れたい。触れたい、と思ってしまう。
「今日、あなたがここに来たのは……私を、SMの道具として……快感を貪りたいから、ですか」
「……いいえ。違います」
「では、なぜ?私は……あなたの何なのですか。快感の道具なのは知っています。私も、あなたとする行為は気持ちがいいし、離れられない。でも、あなたにとっての私は」
「大事な人です……これでは、だめですか」
成宮の悲痛な顔。この顔を見ると、何も言えなくなる……私だって成宮に触れたい。まだ痕の残るこの身体を、愛でてもらいたい……邪な気持ちは、いつのまにか燃えたぎるほどの炎になって、心が焼けて熱くなっていた。
「私と、触れ合えば……成宮さんは、元気に……なりますか」
「なりますよ。僕は貴女が欲しい。今すぐにでも。犯さなくていい。僕は、貴女に、触れるだけで……」
こつん、と額に額を付けてくる成宮は、まるで少年のようで、自分と十も年齢が上とは思えない。寂しそうで、儚くて。それでいて……逆らえない、何か、がある。
「僕が、欲しくないですか。僕の舌で、絶頂を……約束します」