lesson6:恋慕の代償(1)

 その日、事務のデスクではちょっとした騒ぎがあった。
 清水と、先輩の栗田が二人、勤務中に抜け出していったともっぱらの噂だった。私はどちらにも関係している立場なので、その噂を聞きつつそわそわとしていた。先日、成宮に剃られた場所が痒いのだが、それも我慢して私は田町に状況を確認する。もちろん、デスクでは無く、昼食に誘ったのだった。
「清水さんのこと、なんか知ってるの」
「んー、まあ。LINEは来てたよ」
 入った蕎麦屋で、スマホ片手に田町はずるずると蕎麦をすする。LINEが来ていた、ということは……
「もしかして、結構親しい?」
 恐る恐る聞いてみる。もし、清水と付き合ってると言われたらすごく気まずい気がした。
「はは、大丈夫だよ、花巻が心配なことなんてまだ、無いから」
「まだって事は……」
 と言葉を深読みする。これは完全に田町は気がある。清水に……
「まあ、清水ちゃんも社内恋愛したら、お局サンに何言われるか分かんないから消極的だったよ。相当悩んでるみたいだね、栗田さんのこと」
 清水も悪いところがあると思うが、やはり問題は栗田の方だというのは私も分かっていた。
「栗田さんって、めっちゃいい大学出てるんだってね。だから、優秀な自分が男に相手にされないのが嫌なんだよ」
「……」
 プライドの高い女は、自分より幸せな女を憎むのか。なんと非生産的なことか。自分だったら無駄も無駄すぎて、そんなことをしている暇があったら楽しくセックス出来る相手を探してしまいそうで、自分の節操の無さに呆れる。
 最後の蕎麦のひとかけらを拾って、口に入れる。蕎麦猪口の底にわさびが溜まっているのを発見して、そば湯を頼んだ。
「俺もう一枚食おうかな。うまい、ここの蕎麦」
「あ、うん……美味しいね」
 そのまま、田町が注文するのを見ていると、彼はスマホを見せながら言う。
「ほら。泣いてるスタンプが来た」
 見ると、清水の送ったウサギの泣いているスタンプを見て、にこやかな田町がいた。
「なんでそんなに嬉しそうなの」
「だってさ。これで相談に乗れば、俺の株があがるでしょ。そうすれば……運が来るかもしんないじゃん」
 おめでたい考えの田町に、ため息を一つ、つく。そのまま、来たそば湯を猪口に注いだ。
「どうしてもつきあいたいんだ、そんなに好きなの」
「うーん。好きって言うか……なんだろう、もっと知りたい、みたいな?」
 ……もっと知りたい。
 これは私が成宮に感じていることだった。
 拓也には感じない。唯一の感情。
 成宮に剃られたあと、成宮が舐める様を思い出して何度も果てた。そのくらい強烈な記憶だった。私は、そんなに好色ではなかったはず。なのに……成宮と会うと、自分を抑えられない。成宮の事が知りたい。どうして、妻がいるのか、どんな人なのか……辛くて、胸が締め付けられる。
「ねえ、田町の言う好きって感情って……清水さんとどうなりたいの」
「それ、昼に聞くか、普通。飲みながらじゃないと普通は答えないでしょ」
 クスクス笑って、田町は言う。お代わりの蕎麦が店員に運ばれてきた。
 「そりゃあ、男なら、一発やりたいって気持ちが無い事も無いけど。でもそれより、やっぱりこの子を知りたいって気持ちだよ。知りたくて、知りたくて、狂いそうになった結果、がセックスじゃ無いの」
 ぎくり、と心が動くのが分かる。私は、拓也に対しては、最初そう感じていた。でも、もう今はそう感じない。この変化は、一体どういうことなんだろう。しかし、蕎麦屋で話していい会話でも無い気がする。私は、シー、と人差し指を口に当てた。
「本当に運命の人だとさ。飽きないって言うじゃん。俺はその子がだれか、探してんのよ」
 私も、そんな人がいるのだろうか。運命の人?そんなにロマンティックなことを考えたことが無い。私は、もしかしたら今まで本当の恋や愛を知らなかったのかもしれない。拓也に嫌悪感を感じるのも、きっとそれ……?
「そんな風に思ったこと無かった、けど……なんとなく、分かるよ」
「そう?へへ。ま、うまくいったら奢ってやるよ。な?」
 上機嫌で田町は言う。私は、少しやるせない気持ちで蕎麦猪口のそば湯を飲み干す。
 底にあったわさびを忘れていた私は、盛大にむせてしまった。
「何やってんだよ」
「あは、私、結構抜けてんだよ、こういうとこ」
 涙を流しながら、笑う。田町は、すぐに蕎麦を食べきってしまって、私達は会計を済まして店を出る。
「意外に、花巻は可愛いとこあるもんね。彼氏いなかったら、誰かがさらってたろうなあ」
「いや、そんなもてないからね、私」
「なんか隙がある、っていうかさー。不思議な雰囲気だよね、お前ってさ」
 正直な同僚の意見に多少暗くなる。隙がある……?それは、成宮がその隙に付け込んでいる、ということだろうか。分からないけれど、自分の責任で成宮と付き合う事になっていると言われている気がした。
「多分、頭いいのかも知れないけど、お前ってトラブルに絶対巻き込まれないじゃん。上手く躱すし、元々狙われるような事をしないし。そつが無い。でも、話してみるとさ、意外と可愛いところがあるから。そういうのって、男が好きになるよね、と」
 確かに自覚はある。トラブルなんてごめんだし、今までも避けられるなら、と思って彼がいることは公にしていた。でもそのおかげで、社内で声をかけられることも無かったような気が、する。
「彼がいなかったら、多分部長の女とかになってたかも。それで、お局に嫌みを言われる的な」
 はは、と田町が笑った。確かに、素質ありそう、と言われて、冗談なのに何故かバツが悪かった。
 蕎麦屋の暖簾をくぐって、私達は会社のビルへと戻った。