lesson8:贖罪と背徳(3)

 高層のビルの、いつもの玄関に私は立つ。質素で、生活感のない成宮のマンション。表札さえもかかっていない。それがもう当たり前になっていた。最初に縛られてから、幾度、ここに来ただろう……私のアパートに押し掛けてきた日、あの日以外はホテルか、このマンションでしか私たちは交わってない。正確には、アナルセックスしか、していない。膣には絶対に入れてくれない成宮は、私のご主人様なのであった。膣に入れてもらえないこと、拓也と結婚しなければいけないこと。この二つは、絶妙に絡み合っている気がした。
 重たいドアが開く音がする。目の前には、いつもの成宮とは違う、憔悴した様子の成宮が、いた。
「入ってください」
 何も言葉が出ない。いったいどうしたのだろう。昼に連絡をしなかったから?私のせいなのだろうか。いや、そんなはずはない。それは違うはずだ……どくん、どくん、と体内の血が逆流するような感覚に、私は震える。なんだろう、なにか、よくないことが起きている……気がする。
 でも、思い出したらこんな状態の成宮を見たことがある気がする。そうだ、あの時……あの、家に来た時の成宮だ。あの時の彼はひどく疲れていて、私にすがるかのようだった。
 水色のシャツを着ているところを見ると、今日は通勤していたのだろうか、いつものラフな格好とは違う。シツの下に隠れているであろう引き締まった身体。それが分かるくらいに、私は彼のすべてを記憶しているのだ。家の中に入って、見慣れた廊下を進む。高級なマンションは、自分の借りているアパートとは全く違う。いつもこの廊下を通って、抱かれる……それは変わらなかった。今日は、私はどうしたいのだろう。何を彼に聞くことができるのだろう……私の思う、不安な気持ちをぶつけることができるのだろうか。それで、成宮との関係が終わってしまったら……?拓也との結婚と、私のこの成宮に対する気持ち。天秤にかけるほど、拓也との結婚は嫌なのだろうか。違う、きっと結婚が嫌なのではない、成宮と離れるのが嫌なのだ。どうしてこんな仕打ちを、私にするのか。その理由が知りたい。私と成宮との、気持ちの違いを確認したい。私のことを、ドムサブのお遊びとしか、思ってないとしたら……それでも私は、このままの関係でいられるだろうか。成宮に、私は何を望んでいるのだろう……
「今日は」
 成宮の声に、心が反応する。会いたかった。それだけが本当の心なのだ。私のすべてをはぎ取って、心だけにしたとして、この心だけが……
「お忙しかったのですか、いずみさん」
 首を振って、答えようとする。でも、言葉がうまく出ない。なんと言っていいか分からない。自分の気持ち……
「すみませんでした、平日の昼に……失礼でしたね」
 いいえ、とだけ、答える。絞り出したような声だった。自分でも、うまく身体が動いていないのが分かった。
「どうぞ」
 いつものように、成宮に言われてソファーに腰掛ける。何度も抱かれたこのソファー。何度も縛られ、絶頂した……
 いつもは紅茶を入れてくれる成宮だが、今日はそのままソファーの隣に座ってくる。それを、私はじっと見つめる。この、切れ長の瞳。サラサラの髪の毛。触りたくて、でも彼の顔が神妙すぎて、触れなかった。
「今日は、頼みがあるのです、貴女に」
 驚きながら、彼の顔を見る。
「僕と、病院に……行って欲しいのです」
「病院、ですか」
 繰り返すと、成宮は私の両手を握って言う。
「はい……」
 握る手は、ひどく冷たい。私を、ここで待っていた……のだろうか。病院とは、なんのことだろう、成宮の勤める病院だろうか。
「勤務先の病院でしょうか、何故」
「いいえ、違います。僕の勤める病院ではないのです。いずみさん、お願いします……」
 か細く、消え入りそうな成宮の声を聴いて、私は思わず「はい」と返事をする。すると、成宮はほっとした表情になった。
「ありがとう……ございます……車へ」
 そのまま、入ってきた玄関に向かう。玄関にかけられたコートを、成宮が羽織った。私は、まだコートも脱がないまま、また玄関で自分の靴を履く。オートロックの扉が閉まると、彼は私の手を取って、エレベーターへと、向かった。


 車の中、彼は全く話さなかった。
 どうして自分がこの病院に連れて来られたのか、まったく分からないまま、私は成宮と共に病院の受付へと向かった。大きい病院で、○○病院とある。広い外来の受付待合室は夕方のためか、がらがらだった。
 病院の受付に、成宮が話しかける。
「八階に入院中の成宮です。こちらは、妹」
 そう告げる成宮を、私はいぶかしげに見つめる。
「了解いたしました、それではこちらに記帳を。この面会者バッジをお付けください」
 面会者、と書かれたバッジを渡される。それを、成宮はコートの胸につける。私は、鞄の取っ手に挟んだ。成宮がこっちです、と呟くのを聞きながら、その後をついていく。狭いエレベーターの中で、彼は⑧、のボタンを押した。
「……何も説明せずにすみません。妻です。入院しているのは、私の……」
「えっ」
 突然、手のひらに汗が噴き出してくる。どうして?私はどうしてここにいるのだろう。成宮の妻が入院している病院に、なんて……
「妹です、貴女は。すみませんが、そうさせてください。お願いです。どうか……」
 私の顔を見ずに言う成宮に、私も無言で頷いた。なんということなのだろう……私は、一体何をすればいいのか。
 無音で八階に着いたエレベーターから出ると、看護師がナースステーションから出てくる。
「成宮さんですね、先生からお話が。まずは、ご面会を」
「はい」
 成宮がまるで表情無く部屋に向かっていく。八〇一、と書かれた病室。入り口で手指消毒を済ませると、そこを彼がゆっくりと開けた。
「……」
 ピッ、ピッ、という心電図の音。シュコー、シュコー、という人工呼吸器の音。
 そこには、長い黒髪を三つ編みにした、女性が人工呼吸器に繋がれている。やせ細って、頬はこけていた。肌は真っ白で、もはや生気のある顔とは思えない。鼻には管が挿入されており、腕には点滴の管が入っているのも見える。
「……裕子」
 成宮が一言、声をかける。それを、私は見つめることしかできなかった。成宮が睨んでいる心電図のモニターには、四〇、という数字が出ている。
「……すまなかった」
 そういう彼の顔は悲痛すぎて、私には直視できない。顔を背けて、心電図と呼吸器の音を聞く。彼は妻の頬を、なでているのだろうか。