lesson8:贖罪と背徳(4)
「手を」
成宮の顔は、暗く、陰りがあるように見えた。
「握ってもらえますか」
それが私にかけられた言葉だというのが、にわかに信じがたかった。でも、彼は私に言っているのだ。確かに、私に向けられている。
「で、でも」
戸惑う心を知っているはずなのに、自分の手を、成宮が裕子、と呼んだその人の手に誘導させられていた。
「……」
冷たい。
まるで、さっきの成宮のように冷たい手だった。
「もうずっとこのままです。ずっと、ずっと……」
何と言っていいかわからず、動悸だけが痛く感じる。私の心は、悲鳴を上げていた。
「私に、どうしろというのですか」
妻の手に触れたまま、私は成宮に聞く。
「どうしろとは思っていません。隣にいてください。今日は……お願いします」
成宮が、私の手を上から優しく包む。こんなことがあっていいのだろうか。成宮の妻の手を触る私の手を、さらに上から愛おしそうに触る成宮の手……罪の深さで、私は卒倒しそうだった。
コンコン、とドアをたたく音がした。
「成宮さん、すみません、主治医の森山です。現在、心拍数が四十以下になることが多く、このままでは心拍数を維持できないかもしれません。今後の治療方針ですが、旦那様のご意見を……ええと、そちらは、ご家族ですか」
「妹です」
「そうですか、植物状態の奥様ですが、ここへ来て調子が悪く現在血圧と心拍数が下がっておりまして。……心拍数や血圧を維持する薬などはどうなさいますか」
「お願いします」
「それではそうさせていただきます。この後、もし心臓が止まった時は」
「できる限りのことをしてください。お医者様ができる、最大限のことを妻に」
「……了解しました。それではそのようにさせていただきます」
医師と入れ替えで、看護師が入ってきた。
「それではこれから処置をしますので、待合室で。ええと、このまま少し待たれますか」
「いいえ、帰ります。もし、心臓が止まった時は連絡を」
「分かりました」
成宮は看護師にお辞儀をする。それにならって、私もお辞儀をした。病室から出る。完全なる個室で、中には風呂やトイレ、花まで飾られている。ソファーなどもある。
成宮は慣れている。部屋に入って、出る仕草、看護師の動向も読めている気がする。医療従事者だからなのか……しかも、受け答えまで即答している。私には、病院にいること自体が特殊すぎて、苦しくて仕方がない。しかも、こんな重病人の部屋にいるなんて……
帰ります、と一言ナースステーションに声をかけて、成宮はエレベーターに乗り込む。二人っきりの空間なのに、まったく嬉しくない。私はなぜ、ここにいるのだろう。どうして、ここに来てしまったのだろう。後悔が公開を生み、私は絶望の底に落とされようとしていた。
「幻滅したでしょう」
そう、エレベーターで言う成宮に、私はいいえ、とだけ言った。
幻滅?いいえ、幻滅したというのであれば、拓也との結婚話を出されたときよりも幻滅はしていない。そもそも、成宮に幻滅したことはあったろうか。彼は植物状態になった妻を献身的に介護している……ように見えた。
「お腹は、空いていますか」
またいいえ、と声を出す。するとそうですか、と驚いたかのような声が返ってきた。
受付にバッジを返し、成宮と駐車場に行く。黒のスポーツワゴン。成宮の車は、まるで成宮そのもののように、そこに存在していた。エンジン音も低く、大人しい。発進したかもあまり分からないような音の静かさ。
「妻は、五年前から植物状態です。僕は、彼女を助けられなかった最低最悪の夫です」
何を聞いたらいいのだろう。私は一体、この人の何になれるのだろう。もしかしたら、聞いてはいけないことなのではないか。今まですごく知りたかったのに、いざ聞いてみると怖くて、何をどうしたらいいかわからなくなってしまう。
「彼女とセックスレスなのはもう十年ほど。もともとSMが好きだった僕は、拒否する妻では性欲を発散できず、ほかの女と寝ていました」