lesson10:見えない痕(2)

「それでは、誓いのキスを」
 その神父の言葉で、拓也は私の目の前のベールをそっと後ろへと流した。拓也の瞳が、愛おしいといったように私を見つめている。
 私はもう一度、心の中で誓う。
 この人に一生、嘘をつき通します、と。
 拓也を愛しているふりをします。拓也が一番愛している夫であると、他人に嘘をつきます。拓也を支え、拓也がどんなに貧しくても、私はそのために別れたりなんかしない。私が稼いで支えて、必ず結婚生活を破綻させない。
 ゆっくりと唇が近づいてくる。それを、私はそっと目を閉じて、受け入れる。
 半年以上していないキス。
 再開のキスが、まさか、二人の結婚式だとは……誰が思っただろう。
 唇の感触……彼では無い唇。粘膜。彼では無い腕。匂い。髪の毛……
 罪深くその感触を味わう。背徳の、結婚を誓うキスの味は、最高だった。
 そのまま、神父が神に捧げる台詞が続く。賛美歌の用意がされ、参列者はそれに習って歌っている。
 ああ、私は今日、世界一罪深い妻になったのだ。


 式は滞りなく終了し、宴が催される。友人が代わる代わるに新郎新婦の席に来て、挨拶をしていく。
 田町と清水が、席に来てくれた。
「田町……ありがと。清水さんも」
「何言ってんだよ、当たり前でしょ、主任になったんだからさ、俺たちの」
「そうだね、来週からよろしく。あ、あと、二次会の幹事引き受けてくれてありがとう」
 にんまりと私が笑うと、彼は、二次会は任せとけ、と言いつつ怪訝な顔をした。
「おまえ、最近やばいよね。やる気になったらこんなにバリバリなんだーって思ったよ。結婚のパワーってすごいなあ。花巻の力が開花したってことかな」
「花巻さん……あ、来週から沢城さんですね。すごーい。感動です」
 いつもの可愛い清水の姿がまぶしい。ピンク色のドレスは全面にフリルがついていて、愛らしかった。この子はこうして、男性に愛されて生きていくのだろうから。女の生き方としては正しいのかもしれない。
「田町、助けてやってね。一応私から、清水さんの教育係は田町を付けるように言ったんだから」
「もっちろん、感謝してるよ~清水さん、めっちゃできる子だよ。第二の花巻みたいに育てるんだ」
「清水さんが迷惑だよ」
「そんな、あの、尊敬しています私……花巻さんがいなかったら辞めてた」
「大げさね」
 清水は首を振る。私は、波風が立たないように生きてきた、でも、無視できなかった。そうして、誰かを気にして、助け合って生きられるのは、強い人しかできない。私は強くなっただろうか。少しでも、自分の生きたいように、理想に近づいているだろうか……
「いずみ」
「理恵……」
 理恵が挨拶に来たところで、田町を清水は帰っていく。理恵の息子は、ベビーカーですやすやと眠っていた。きちんと、ベビー用のタキシードプリントの服を着ていて楽しい。
「わあ、可愛いねこれ」
 服を褒めると、理恵は嬉しそうに笑った。ありがとう、と笑う理恵は、すっかりお母さんの顔をしていた。
「いずみ、幸せになってね」
「私は幸せだよ」
「いずみが結婚するっって言ったとき、私どうしようかと思ったの。反対しようかな、とか、いろんな気持ちが渦巻いて……ごめんね、こんな、不謹慎だよね」
「ううん」
 気持ちがありがたい。きっと、私のことで唯一気づいているのは彼女かもしれない。私はこの先、友人、親友さえもだましていかなければならないのだ。
「いずみは、幸せなんだね、今も」
 悲しそうな、寂しそうな顔で理恵は言う。
「そうだね。今すごく幸せ」
「……それだけが心配だったの。拓也君に、うんと幸せにしてもらってね」
「分かった」
 拓也がいなければ、私は幸せとはほど遠かっただろう。 の愛を受け入れる方法が無かったかもしれない。ただただ、縛られて快感を得るだけの女だったかもしれないのに。拓也はそれを叶えてくれた人でもあるのだ。

 本当に感謝するしか無い。結婚前からセックスレスなのに、結婚したいと言ってくれた拓也に。
「また、うちにも遊びに来て。今日は呼んでくれて、嬉しかった。私のことを、思い出してくれて」
「ありがとう。幸せになるね」
 幸せになる確信はある。拓也が幸せで、私も幸せになる確信はある。これから私がどんな風になっていくのか、考えただけでもわくわくしているのに。理恵の言うような、普通の女性の幸せは、私には無理だった。でも、私なりの幸せがあるって、信じたい。それを信じてもいいって思わせてくれたのは……
「いずみ、お色直し」
 拓也に声をかけられて我に返る。そうだった。急がないと。スタッフが待機している。
「またね、いずみ」
 そう言った理恵の笑った顔が、なぜかとても辛そうに見えた。理恵の息子の眠った幸せな顔が、ずきんと心に刺さったような気が、した。