lesson1:憂鬱な三十歳(6)

 そう言われて、どきんと胸が鳴る。そうだ、今にもいってしまいそうだった。胸しか触られていないのに、もう絶頂してしまいそうになっているなんて。自分はどうしてしまったのだろう。
「感じやすいのですね。嬉しいです。僕の縄でこんなに悶えてくださるなんて」
 もしかしたら、こんなに本気にさせておいて、これから入れるつもりなのだろうか、と不安になる。快感で頭が痺れている状況を作られたら抵抗できない。断れない……
「それでは、胸だけでいってみましょうか。縛られて、僕に舐められて」
「えっ、そんな」
 どうしてそんな言葉が出たのか分からない。でも、ひどい、と思ったのは確かだった。ひどい?何がひどいのだろう。成宮が?ここでこんなことをしている自分が?
 ……それとも、入れてもらえないと思ってしまった、私が?
「さあ、感じて。いくときの顔を僕に見せてください」
 れろ、と這ってきた舌は、乳房の周りから徐々に先端へと移動する。ぴんと張って、紅色の先端がまた、成宮の口腔に包まれていく。
「ううっ」
その声も表情も、もう快感のそれでは無い。苦痛に顔を歪ませるように、痛みで耐えられないかのように。誰かに助けてもらいたい。この快感から解き放って欲しい。頂点に行きたくても恥ずかしさで行けず、燻っていた。
 無情に、断続的に、成宮は先端を舌で転がす。吸って、離す。それからまた、唇で啄む。更には、もう片方の乳房をてのひらで包むことも忘れない。
「いいです、すごくいい。綺麗ですよ、いずみさん。さあ、いってしまいなさい」
 その成宮の優しい声。それが決定打になって、抑制が完全に外れた。
「なる、みや……さん、ああ」
 いきたい。このまま、この人の舌で。口の中で全てを掌握される快感に委ねたい。
「ああああ……」
 諦めにも似た声を漏らして、確実に頂点へと誘われる。すると両方の乳房を寄せて、二つの先端が成宮のそれに包まれた。成宮の意外と長いまつげを見つめながら、いずみは――弾けた。
 刹那、痙攣にもよく似た感覚。こんなにも長く絶頂したことが、かつてあっただろうか。先端を舌で、唇で吸われながら、がくがくと震え、徐々に緩やかに落ちていく身体。
「……ああっ、」
 最後、快感の残りでのけぞると、そのまま成宮の腕に抱かれていく。しっかりと自分の身体を抱き寄せて、髪の毛を撫でてくれる成宮は、優しく笑っていた。
 胸の愛撫だけでいってしまった。そのことが信じられない。しかも、知らない男に縛られて絶頂したのだ。
 そっと、縛っていた縄とネクタイを解かれる。名残惜しそうに、彼は縄を綺麗にまとめ、バッグへと入れた。
 愛液で大腿が汚れているのが分かる。はみ出して、漏れ出た液体はシーツを濡らしていた。
「こんなに感じて。いずみさん、僕はとても嬉しいですよ。縄を気にってくれたようですね」
「はい……」
 成宮が、仕事用のバッグに入れていた女性用の下着をくれた。これは、よくあること、なのだろうか。この人にとっては、全てが慣れたことなのかもしれない。
 下着を替えようかどうしようか迷っていると、そのまま抱きしめられた。
「成宮さん……」
 名前を呼んでも、返事は無かった。代わりに、きつく抱きしめてくる。仕方なく、そっと、背中に腕を回す。この人の感情が今、露出している。何だか分からないがそう思う。応えてくれたと、そういうことなのだろうか。
この成宮という人は、一体どんな人なのだろう。何も、この人の事を知らない。でも、腕の中に包まれてみて違和感は感じない。むしろ安心している自分がいる。今日初めて会ったなんて、そんなことは嘘のように思えてきた。
「また、会ってもらえますか」
 成宮は、身体を離さず、首筋に唇を当てて聞いてきた。どうしよう。一瞬拓也の顔がよぎる。でも、はい、と言ってしまっている自分がいた。
「……良かった」
 寂しそうに彼は笑う。どうしよう。一回だけと思っていたのに、次を約束してしまった。戸惑いの中、成宮は言う。
「出ましょう、あまり遅くなるといけません」
 

 余りにあっけなくホテルから出て、私たちは駅へと向かっていた。
 成宮は自分に話しかけて来るでも無く、私たちは無言で歩いていた。
 駅の構内は人が少なくなっていた。時計を見るともう十時だった。
「それでは、いずみさん。またご連絡します」
「……はい」
 それは恋人同士のそれではない。まるで仕事の相手のように、事務的に成宮は言った。
 先ほど抱きしめられた時とは全く違う。あの情熱は感じられなかった。
 去って行く成宮の後ろ姿を見つめて、ふと、左手の指輪に気づく。
 そうだった。縛られ、興奮していてスルーしていたが、確かに彼の指には指輪があった。
「既婚者……」
 そう呟いてため息をつく。四十歳の男性、既婚者。縄師。それ以外の事は知らない。
 それでも彼に、もう一度会ってしまうような気がする。拓也とこのままなら、やっぱり私は快感を求めに行ってしまうのではないか。期待と絶望と、快感の余韻に包まれて、いずみは電車の中、ベッドの上で自分を抱きしめた成宮の熱情を思い出していた。
 また、憂鬱な明日が来る。
 そう思いながら、いずみは自分のベッドの中でまどろむ。
 拓也のことは、考えないようにした。