lesson2:縄の痕(1)

 「縄 縛る」で調べてみる。
 いずみのスマホをスライドする手は、少し汗ばんでいた。
 それもそうだろう、土曜日の激しい快感からまだそんなに経っていない。今日は月曜日だった。しかも、実は今、昼休憩のまっ最中である。社食を食べてから、コーヒーを買って社内のベンチに座る。この場所は意外と誰も近くに来ないので気に入っている。窓から駅の高層ビルが目に入ると同時に、少し下を見ると街道の並木の緑もある。車内で唯一落ち着ける場所だった。
 スマホを見ると、縄で縛られた女性の画像がたくさん出てきて、焦る。どうしよう。こんな風に私は縛られていない。でもこの画像を見ていると、あの熱い快感を思い出す自分がいる。成宮にまた会いたい自分に気づいてしまう……成宮はきっと、控えめに縛っていたのだ。その証拠に、この画像に出てくる人たちは本当にがっちりと縄で縛られていて、動けない様子である。次、もし会ったら。成宮に会ったら、私もこんな風にされてしまうのだろうか。でも、成宮はとても優しかった。きっとまた、私の話を聞いてくれるのではないか。そんな期待をしながら、心の中の不安を消した。そんなに、私は成宮に会いたいのか、と自分でも驚く。一回だけと思っていたのに。まるで悪魔に魅入られたように、成宮の事を考える自分がいた。
事務的に、平坦に、駅で言った彼の言葉を、もう一度反芻しても、それだけで下半身がじわりと熱くなる。赤い縄は、燻った私の心に火を付けてしまったのだろうか。それとも……成宮の愛撫と縄の効果が、抜群であったから?私のこの気持ちは性欲の様な気がして、恥ずかしい。まるでセックスを覚えたての猿のように、そればかり考えてははあ、とため息をつく。拓也に後ろめたい気持ちは、どこかにいってしまった。
(だって、別にセックスをしたわけじゃないんだし)
 そう思う自分がいる。セックスをしていないのだから、浮気でも何でも無い。でも、ホテルに二人で入った時点で、世間ではそう言われるのだろうか……
 縄が食い込んでいくあの感覚。そこに痛みと、ほんのりと広がっていく気持ちよさを確実に感じていた、私。
 戻れなくなるのではないか。そう直感的に思ったのもつかの間、後ろから声をかけられた。
「いい?花巻さん。あの子の事なんだけど」
 先輩の栗田だった。栗田は自分に仕事を教えてくれた先輩で、頭があがらない。でも少し、世代がずれているためか多少パワハラじみたところはある。反対に後輩の清水は、うっかりと空気を読めずに失礼なことを言ってしまうことがある。でもそれが、実はわざとなのでは、と思う事さえある。神経を逆なでしているように思えてしまうのは、自分も清水との世代が違うのだろうか。
「あの子、というのは……清水さんですか」
 なんとなく後ろめたさでそういうと、栗田はうん、と頷く。どうして隠れて話したがるのだろう。普通に本人も交えて言えばいいことだ。
「先週のこと、あったでしょう。私が言うと、あの子固まってしまって、何もできなくなるみたいなのよ、あなた言ってくれる?またパワハラだとかって言われても、ねえ」
「……私は、清水さんの教育係でしたけど、でももうあの子は一人で仕事してますし」
 正直言って巻き込まれたくない。だって、絶対に嫌な予感がする。
「あなたが一年間教えてたことって、結構重要だと思うのよ。だから、あなたが言った方がいいと思うの。まずね、話し方というか、先輩に対しての言葉づかいなんだけど……」
 それは世代もあるのだからしょうがないだろう。自分で言えばいいのに……
「はあ」
「もう、花巻さんに期待して言ってるんじゃない、きっとあの子、これから外に出た時とか、絶対に苦労すると思うのよね。まあ、男受けはいいみたいだからうちのおじさん共は可愛いと思ってるみたいだけどね?」
 結局はそれ。そこが気にくわないのだろう。自分の事を棚に上げて、他の女が可愛いいとこうして攻撃する。全くお局様には参ったものだ。
「話し方って、どういうことですか、具体的には」
「語尾を伸ばしすぎよね、聞いてて分かるでしょう、不快なのよ」
 別にそれは癖というか、しょうがないと思うのに……
「あとは、男に対しての時だけ声が高いし、そうね、じっと見つめたりしてるでしょう、誤解されると思うのよね」
 途中から本当に興味が無くなって、はあ、はい、の二つを言う為のbotにでもなった気分だった。
「じゃ、頼んだわよ、花巻さん、私、あなたには期待してるから」
「……は、はあ」
 ぼんやりと受け答えして、ため息をつく。それでも自分の中に、後輩を攻撃してしまいたい気持ちと擁護したい気持ちが渦巻く。どうしてあの子の為に私がこんな気持ちにならなきゃいけないんだろう。本当に嫌だ。
 窓からの高層ビルを眺めて、コーヒーの匂いを嗅ぐ。もうとっくに冷めてしまったコーヒーの残りは、苦さよりも酸っぱさが勝っていて、私は給湯室の流しにそれを捨てた。なんとなく嫌な気分だった。

 部署に戻ると、隣の席の田町がお帰り、と言ってくる。ただいま、と答えて席に着く。そうだった、年末までの売り上げと在庫のリストを隣の田町と作るのであった。
「待ってたよ、やろう」
「……うん、やるよ」
 彼は同期で入った職員で、気兼ね無く話すことが出来てとてもいい人だ。彼の話なんかもしたことがあって、結構何でも話す事ができる貴重な仲間だった。
「そういえばさ、花巻って清水さんの教育係だったっけ?」
 ぎくり、としながらも、うん、と素っ気なく答える。あの子またなんかした?
「清水さんさ、さっき、他部署のおばさん職員に対してタメ口使ったとかで怒られてたよ。面白い子だよな」
「……ああ……」
 どうしてそうなってしまうのだろう。別に本人達がいいならいいのではないか。ため息をつくと、田町は言う。
「なんか病んでるの?教育係だからってんでとばっちり?」
 全く勘がいい男だ。正にいま、その問題にぶちあたっているのに。
「うんまあ、そんなとこ」
「……へえ、大変だね」
「男は気楽でいいね。女子は群れるから大変なの」
「はは、まあそうかもな。別に群れるために会社来てるわけじゃないから」
 田町の様に気楽に生きられればいいのになあ、と思う。結局私先輩にも後輩にもはさまれて、でも自分からは何も言い出せていない。断れない。いっそのこと、清水に冷たく出来れば楽かもしれないのに、それもできない。困ったものだ。
「清水さんに言えば?君のせいで私が大変だって」
「そんな格好悪いこと言える?」
「へえ?先輩だから?言えない?」
「……」
 田町の言うことは最もだった。言ってしまえば楽かもしれない。私には頼らないでくれと。でも言えない。だって、私が掌を返したらあの子は誰に相談するのだろう。
「ま、余り考えない方がいいんじゃない」
「……そう……だ、ね」