lesson2:縄の痕(2)

 なんとなくもやもやしながら仕事をして、コーヒーショップに寄って家路に着く。ネットで検索したいかがわしい画像の事は頭にあったが、もう一回調べようという気は失せていた。
 いつもの何もない冷蔵庫を見つめていると、拓也から電話がかかってきた。スマホをスライドし、スピーカーにして話す。
「あ、いずみ。どう?」
 拓也の声。聞くとほっとするのに、この前の成宮の件で後ろめたい。あの時の真っ赤な縄が脳裏に浮かぶ。ああ、どうして拓也の声を聞くと思い出すのか。拓也の前では、思い出したくない、いや、思い出してはいけないことなのに。
「うん、まあ……なんとかやってるけど、やっぱり忙しいかな」
「そう、あのさ、来週のクリスマスのことなんだけど」
 来週のクリスマス。え、もうそんな時期だった?そうか、いつもは拓也がどこかのレストランを予約して、二人で食事しては飲んでいるのだ。カレンダーでクリスマスイブの日付を見ると、土曜日だった。
「実は、予約してあるんだ。ワインバーなんだけど。いい?」
 断る理由も無く、うん、という。拓也とのクリスマスの過ごし方は変わらずここにある。そう思うと少し安心する自分がいた。うん、また、私は拓也と前のような関係に戻れる気がする。
「よかった。忙しそうだから、いずみ。だめかと思った」
「ううん、楽しみにしてる。きっともう当日まで会えないかもね」
「そうだなー、うちらも忙しいしなあ。クリスマスは稼ぎ時だからね、俺らも」
 拓也の務めているアパレル業界は、イベントでほとんどの稼ぎを出している。なので、クリスマスは本当に忙しい。そんな中でも、土曜日に時間を取ってくれる拓也の優しさに感謝する。
「ただ、時間がさ。多分九時からになるけどいい?」
「全然いいよ、土日なら大丈夫」
「ごめん。年明けたら、必ず……いや、福袋が終わってからだけど」
「いいよ―全然。ありがとう毎年いいところ取ってくれて」
「どうかな、今年は。俺も今年の場所は楽しみにしてんの」
 ふふ、と笑いながら、仕方なく冷蔵庫のビール缶を開ける。蒼いビールの缶は、クリーミーな泡と共にめくるめく多幸感を与えてくれる。
 拓也が嫌いになったわけでは無い。それどころか、成宮に会ったことで拓也への思いは少しだけ、新鮮に感じているんじゃないだろうか。
(いや、そんなこと、思ってはいけない。どうかしてる)
 少しだけ背筋がぞっとした。まるで成宮に会っている事を正当化するような自分の心に、蓋をする。どうにもならないこの気持ちは、そっとしておくのが一番だろう。
「そういえば、仕事はどう?まだ板挟みは続いてんの」
 自分の状況を聞かれて、正に今日の話で言葉に詰まる。どう言ったらいいのだろう。
「なんか、どうも上手くいかなくて……先輩にはけしかけられるわ、後輩は空気が読めないし……」
「職場って絶対そういう奴一人はいるよな。どっちもしょうもない」
「そうなんだよね、結構板挟みは辛いよ。この年末の忙しい時期にさ」
「アパレルなんて忙しすぎてもうさ、猫の手も借りたい。そんな職員同士のいざこざなんて気にしてる暇も無いや」
 ふうん、と言いながら、内心ぎくりとする。こんな些細なことは、拓也の中ではいざこざに入らないと、そういうことだろうか。
「取りあえず売り上げって感じかな、年末はさ」
「そうだね、仕事優先だよね」
 拓也はきっと、中間管理としてドライにならざるを得ないと言っているのだろう。でも私にとっては、管理職でも無い人間は、有り余った時間で余計な問題が起きることも多々ある。それは、拓也には分かってもらえないのかもしれない。そうできたら、本当にいいのに……。
「じゃあ、また電話する。クリスマスに着ていく服は送るからさ。待ってて」
「えっ、そうなの、ありがとう」
 太ってないよね、と冗談交じりに言う拓也に、太ってないよ、と言い返す。楽しかった。まるで付き合い初めの頃に戻ったみたいだった。クリスマスが楽しみで、わくわくする心。電話を切った後も、心が弾んでいるのが分かった。
 残ったビールを飲みながら、リビングにある果物ざらのバナナをかじる。夕飯はこれでいいか。クリスマスまでに太るのも嫌だし。明日もきっと、お局がうるさいだろうから、もう寝てしまおうか。お風呂も沸かさないと、と思い風呂場に行く。スマホで拓也の言ったレストランを検索していると、SNSのメールが届いている、というお知らせが目に入る。
「……まさか」
 心臓が一気に跳ね上がるのが分かる。まさか。まさか。先週のあの日から、まだ三日も経っていない。もしかして、と言う思いの中、夢中でメールボックスを開く。そこには「ナルミヤ」の文字があった。
「……ああ」
 悲観とも歓喜ともつかない自分の声。心の奥がじっとりと濡れていくのが分かる。どうしよう、知りたい。でも知りたくない。このメールを読んでしまったら拓也との今日の会話が無くなってしまうような気さえした。
 震える手で、それでもメールを開く。成宮からのメールは、前回のように丁寧な言葉が並べられていた。

『いずみさん
 先日はとても素敵な日になりましたね。
 貴女の縛られている姿が僕の脳裏に焼き付いて離れなくて、週末は大変困りました。
 美しい姿と、貴女が弾けたときの顔が忘れられません。
 いずみさんはどうでしたか?
 次は、もう少し縛る場所を増やしてみたいと思っています。あと、目隠しなんかも。
 僕の欲望をかなえて下さる貴女に会いたくて会いたくて、一日が待ち遠しい。
 いずみさんのご都合の良い日を教えて下されば、僕は必ず馳せ参じます。
 この前のバーで、お待ちしています。是非ご連絡ください。』

「……ああ……」
 諦めの様な声が出てしまって、自分でも自分にがっかりする。だめだ。こんなメールを読んでしまったらもう戻れない。私はもう、逆らえない……今にも、食い込んだ縄を、彼のコロンの匂いを、左目の黒子を、舌の感触を。思い出してしまってどうにもならない。身体の奥が疼いてしまう。拓也では感じなかった気持ちを、成宮には感じている。これが欲しかったのだ。私は、これが欲しかった……。身体の奥が男を欲するという経験が今まで無かったのを恨む。どうして成宮に会いたくなってしまうのだろう。たったの一回だけ会っただけなのに。どうしてこんなにも会いたいのだろう。また、縄で縛られに行くと、分かっているのに。セックスはしないと、彼は言っているのに……浮気にもならない成宮という存在。どうして私は、この人にこんなにも会いたいのだろう。
 明日にでも会いたい。もう、この燻る思いを、どうにかして欲しい。でも、あんなに快感で咽ぶようだと、次の日の仕事は出来ないかもしれない。夢中でスマホをフリックした。