lesson5:背徳の味(2)
「さあ、少し良くなったかしら。いずみさん?」
保冷剤を額に当てて、私はソファーで座っていた。確かに、少し気分はいい。まだ胃が重たい気がしていたが、それは徐々に良くなる気もした。拓也が心配そうに私の顔をのぞき込んだ。
「さっきより、いいかなあ」
よくよく聞いて見ると、拓也の母親は拓也と話し方が似ている。優しくて、気遣いの人。それが声にも現れているようだった。
「都内だからと思って、油断してたよ。日曜の渋滞を考えてなくて」
「日曜はな。ここらは渋滞が酷い。いつもだ」
厳格な様子の拓也の父。自分の父親はまるで遊び人で、細面で軽口で、冗談の一つや二つ、すぐに出るような男であったのに、まるで違う様子の父親の姿に多少おののく。怖そうな、怒鳴られそうな雰囲気がある男性は、苦手だった。
「そろそろ昼食の準備をするわ。拓也、手伝って頂戴」
母親と共にキッチンに消えていく拓也。父親と二人きりが嫌で、私も、といいつつソファーから離れようとすると、遠くから掌で制止された。
「いや、もう少し休んでいて下さい。大丈夫ですよ、あいつはああ見えて、何でもこなす奴だから」
息子への絶対的な信頼。この父親からは、それが感じられる。父親から信頼されるというのは、とてもうらやましい。私はどうだろう。父親にも、母親にも、信頼してもらえていただろうか。どんどん自分がここにいてはいけないような気がして、気分が落ちていく気がする。
……私は彼(たくや)にふさわしくない。
だって、このワンピースの下、自分の肌には、他の男が付けた縄の痕が残っているのに。
「さあ、どうぞ、奥地に合うか分からないけど。お飲み物は何がいいかしら?飲めそう?」
「いえ……すみません、まだ少し気持ち悪くて」
「オレンジジュースなら飲める?酒は止めとくか」
拓也は運転で飲めないというのに、自分も付き合えないという心苦しい結果になり、内心とても辛い気持ちになる。
「ごめんなさい」
「いえっ、いいのよー。気にせず。もし食べれたらつまんでね。無理しなくていいから」
ちらし寿司とポテトサラダ、それにフルーツ盛りが出てきて、豪華な食事と彩りに息を飲む。料理上手な母、頼りになる父……何もかもが私と違う拓也。だからこそ、惹かれたはずなのに……
ジュースを飲みながら、軽く自己紹介をして、ご両親に挨拶を交わす。二人はとても気さくで、厳格そうな父親でさえも酒が入ると饒舌で、気のいい人だった。帰る頃には気分もすっかり良くなっていたが、心の奥では自分の黒い心に押しつぶされそうだった。
三時頃、拓也が帰ろうか、と言い出したのでそのまま御礼を言って帰ろうとする。持ってきたケーキを食べてっては、と言う母親を他所に、拓也は帰るよ、と言って車を出しに家を出た。
「もう少しゆっくりしていけばいいのに。気を遣わないでね」
そういう拓也の母は、優しくて完璧な母親に見えた。
「ありがとうございます、でも、明日も会社ですので……」
「仕事が忙しそうでいいことだね。すまんが、あれをよろしく頼みます」
「いえ、そんな……いつも助けていただいているのは私の方です」
またいらっしゃい、と言う母親に会釈をして、私は靴を履く。玄関でもう一度お辞儀をすると、車に乗り込んだ。
「じゃあ、また。ありがとう、父さん母さん」
二人は和やかに手を振っていた。私は、車の中でもう一度会釈をした。
「……ごめんね、なんか酔わせてしまって。久々運転したからかな」
「ううん、酔っちゃうなんて……我ながら、なんでこんな時なんだろう」
「それに、楽しくなかった……よね」
ぎくり、と刷る心を、見透かされないように私は答える。
「ううん、具合が悪かっただけ、だよ。こっちこそごめん」
二人で謝って、なんだかかみ合わない歯車のように会話する。街中を走る車は、いつのまにか、来たときとは違う道を通っていた。
「何処に行くの」
「……ねえ、たまには、ホテルでしない」
……背筋に、冷たいものが走った気がした。
「いや、今日は……ごめん、あんまり気分も良くないし。家に帰ってもいい?」
慌てて言う。拓也の目は、見れなかった。だって、私の身体は……
「いずみの家で、抱いていいの」
首を振る。嫌、とだけ、言葉が出た。どうしてだろう。上手く言葉が出てこない。いつもみたいに、上手く断れない。顔が歪んでいるのが分かった。こんな顔、拓也には見せたことがないのに、どうしても表情が変えられない。
「……ごめん、俺……いずみの気持ち、考えてなかった。いずみ、家族が……そうだよな」
何やら、拓也は色々と察した様子だった。確かに、私の中で縄の痕が残っていることだけでなく、今日拓也に抱かれたくなかった。何だか、拓也と家族になってくれ、と両親に頼まれたようで、更に嫌悪感が増す。嫌だ、と、心の何処かで誰かが叫んでいるようだった。
「送るよ」
一言、そう言って、拓也はいつもの道へと戻る。車窓から、その夕暮れの町の風景をぼんやりと眺めていた。